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彼女と一台の自動車

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1

 秋の午後、やや遅い時間。あるいは、夕方のすこし早い時間。ダイニング・ルームに客をとおす準備は、まだ終わっていない。早い時間の客は、したがって、ロビーとして使っている部屋か、バー、あるいはテラスに案内される。彼女はテラスがいいと言う。

 太陽は深く西にまわり、低く落ちている。テラスにむけて、光は、浅い角度で斜めに入っている。ほとんどのテーブルが、影のなかだ。その影のなかに、三組の大人の客がいた。

 若い端整なウエイターは、ひとつだけあった陽の当たるテーブルに、彼女を案内する。テラスのすぐ外にある大きな落葉樹をかすめて、太陽の光はテーブルに届き、彼女のテーブルとその周辺は、影と光の美しい模様のなかだ。

 純白の、厚みの充分にあるテーブル・クロス。文句のつけようのない造形の、小さなガラスの花瓶。テラスという場所、そこにあるテーブル、そして秋のなかばという季節に、みごとに調和している花瓶だ。だから、文句のつけようがない。

 淡く赤い花がいくつか、その花瓶に挿してある。斜めの光が、柔らかく当たっている。椅子にすわり、脚を心地よく組み、椅子の肘かけに腕を置いている彼女も、温かい色の光を受けとめる。

 彼女をその席へ案内したウエイターは、彼女の様子を見て満足する。そして、彼なりに確信を持つ。美しい人には美しい場所を提供すべきだ、と。

2

 一台の美しいクーペが、芝生の上をゆっくり走ってくる。別荘の広い庭の一部だ。リトル・リーグの野球が、この芝生のスペースだけで、充分にできる。

 芝生のまんなかに、そのクーペは止まる。エンジンが停止する。運転席にいる彼女は、ドアを開く。優雅な身のこなしで、彼女は外に出る。ドアを、優しく適確に、うしろ手に閉じる。

 左の席にいる彼は、フロアに置いてあった何冊かの本を、拾いあげている。胸にかかえるようにしてすべての本を持ち、ドアを開いて外に出る。そして、ドアを閉じる。

 彼女の姿が見えない。クーペのルーフごしに、むこう側のあちこちを、彼は見る。彼女は、どこにもいない。突然、消えたのか。彼は、彼女の名を呼ぶ。返事はない。

 いぶかしげな表情で、彼はエンジン・フードのまえをまわり、クーペのむこう側へいく。どこへ消えたのか、と彼女をさがす彼の視線は、クーペのすぐかたわらで芝生の上にあおむけに寝ている彼女をとらえる。

 あおむけに大の字の彼女は、額に片手をかざして太陽の光をさえぎりつつ、まっ青に晴れた空を見ている。その手によって、彼女の美しい顔の上半分は、濃い影だ。

 彼女の姿を見て、彼は彼なりに確信する。美しい人は美しい車で、美しい場所へくるべきなのだ、と。

3

 ふたりは、いっしょに乗ってきたクーペのエンジン・フードに、よりかかっている。目のまえには、視界いっぱいに、夜になってまだ間もない太平洋がある。海は、重い艶のある、ダーク・ブルーの巨大な生命体だ。その海の上に、ついさっき昇ったばかりの満月がいる。静かに燃えるその黄金の球体が海から突然変異のように分裂し、劇的に生まれてくるのを、ふたりはいっしょに見たばかりだ。海の上に昇る満月を見にきて、ふたりはいまでも海と月とを見ている。

 水平線のむこうから、満月の縁のほんの一端が見えた瞬間は、時間が静止して月だけが生きている、と彼女は思い、いまでもその思いのなかにいる。

 月の縁が海の上に出た瞬間、月の光が海の上を自分にむけて走ってきたスリルを、彼女は思い出す。双眼鏡でたぐりよせて見た、巨大な球体は、いま海の上に宙吊りであると同時に、彼女の心の内部にも、等しく巨大に浮かんでいる。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年

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彼女 片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』
2017年9月28日 00:00
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