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幼い頃の自分について語る(2)

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(1)からのつづき》

2

 ぼくは、小学校六年生の頃には、すでに専門家になっていました。なにの専門家かというと、出来るだけ学校へいかずにすませる専門家です。小学校六年生の頃には、ぼくは一年のうち三十日くらいしか学校へいかなかったと思います。そんな少ない出席日数でも、無事に卒業することが出来たのです。専門家の腕前です。

 小学校に一年生として入学するため、その入学式の当日、ぼくはひとりで学校へいきました。十五分ほども歩くと、ぼくが入学することになっていた小学校の校庭や校舎が見えてきました。そして、それを見たとたん、あ、これはぼくの嫌いなものだ、ぼくにはむいていないものだ、ぼくは嫌だ、ぼくはこういうものを出来るだけ避けてとおらなくてはいけない、と思ったのです。こんなふうにはっきりと思ったのではなく、もっとぼんやりした思いかただったはずですが、とにかく、これは嫌だと、小学校の校舎を見たとたんに、本能的にぼくは思ったのです。

 なぜ嫌だと思ったか、その理由を、ここではごく簡単に書いておきましょう。はじめて見る小学校は、ぼくにはとても怖いところに見えたのです。

 いちおう入学はしましたけれど、ぼくは出来るだけ学校にはいかないようにしました。朝、家を出て、学校のほうにむけて歩いていくのですが、途中でちがう方向へいってしまい、そのまま一日じゅう、学校以外のさまざまな場所で楽しく過ごし、夕方、家に帰るのです。学校へいくかわりに、ぼくは楽しく遊んで過ごしたのです。

 ぼくが小学生になったのは、日本が戦争に負けたすぐあとでした。瀬戸内海に面した、かつての軍港の町の大人たちは、自分たちの生活をつくりなおすのに精いっぱいで、子供がひとりやふたり学校へいこうがいくまいが、たいして気にもとめなかったのです。

 現在とはまるでちがって、当時のあの地方の環境は、子供の遊び場として最適でした。目のまえには瀬戸内海という美しくておだやかな海があり、その海に沿って平地があり、川が流れ、その川をほんのすこしさかのぼれば、そこは中国山脈のなだらかな山裾なのです。空は青く、草は緑、そして空気は澄んでいて、たいへんに牧歌的な環境でした。人々の心もいまからは想像も出来ないほどにおおらかなものだったのです。

 要するに、ぼくは、学校を徹底的にさぼり、そのかわりに徹底的に遊んだのです。六年生の頃には、そのような生活の専門家となっていました。中学、高等学校と、専門家ぶりはさらに続いていきました。

 学校をさぼりなさいと勧めるわけではないのですが、学校へいくのと自由に遊ぶのとでは、楽しさはまるでちがいます。ぼくは、楽しいほうをとったのです。

 学校へいくと、先生からああしろ、こうしろ、これは駄目、あれもいけないと、いろんなふうに管理されてしまうのですが、学校へいかなければ、時間はすべて自分のものです。その自由な時間のなかで、なにをしようがなにを考えようが、自分だけの責任でやっていけるのです。日本がもっとも牧歌的であったいい時代に、ぼくはこうして小学校、中学校、そして高等学校を、すり抜けてきたのでした。

 学校へはほとんどいっていないのに、卒業だけはしているのです。このことは、あとになって多少の問題を生みました。普通に学校にいっていれば誰でも知っているようなことを、まるっきり知らなかったりすることが、しばしばあるのです。このことに気づいたのは、ぼくが大学生になってからでした。

 大学生のとき、ぼくは、小学校から高等学校までの全教科の教科書を買い集め、ひとりで読んで勉強しました。もっとも勉強になったのは、音楽です。小学校唱歌と呼ばれているいろんな歌を、大学生のぼくは自分でピアノを弾いて勉強したのです。日本という国について、じつにいろんな意味で、勉強になりました。

 というような育ちかたをしてきたぼくですから、小学校の頃の思い出は、学校の外にたくさんあり、学校のなかにはほとんどないのです。たまに学校へいくと、きみは転校生かい、などと受け持ちの先生に言われたりしていたのですから。

《(3)へつづく》

底本:『きみを愛するトースト』角川文庫 一九八九年


『きみを愛するトースト』 小学校 少年 瀬戸内海
2017年9月24日 00:00
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