アイキャッチ画像

『パリ・テキサス』を観た

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 空中から撮影した荒野が画面に映る。その荒野のなかを、ひとりの男が歩いている。いったいこの男になにごとが起こったのだろうかと、スクリーンを観ている人は思う。ここから、この映画はスタートする。

 荒野をひとりで歩いて来たその男は、やがて一本の道路に出る。道路から荒野のなかにむかってまっすぐに離れていくひとりの男、というイメージがサム・シェパードの『モーテル・クロニクルズ』のなかにあり、その小さなイメージの断片からこの映画のアイディアははじまったと、試写室でくれる日本語の資料には書いてあった。もしそのとおりなら、出来あがった映画は、きっかけとなったアイディアの裏がえしから、はじまっている。

 道路から荒野にむけてまっすぐに離れていく男は、世の中というものぜんたいから自分を隔離しようとしているのだ、と解説することが出来る。というよりも、こんな風に解説しないとなにもはじまらない、というようなところに、この映画の立脚点がある。その男が自分ひとりだけで生きていたなら、いくら世の中と自分とのあいだを断絶させてもそれほどの不都合はないのだが、たとえばひとりの女性を愛し、その女性が彼の子供を生んだりしていたとなると、自らの手による自分自身の隔離は、彼女や子供との関係をひとまず粉々に砕いてしまうことを意味する。

 これは自分だけにしか見えないのだ、と言っているような目つきをして荒野を歩いて来た男がやがてぶつかる一本の道路は、自分がかつて壊してしまったひとつの関係を修復する作業へと、とりあえずはつながっている。壊した関係の修復への道のりが、映画のなかでは描かれていく。どのような関係がどんなふうにして壊されたかについては、映画のなかで当事者である男女ふたりの対話によってわかるしかけとなっている。

 男がかつて壊した関係は、彼の努力のようなものによって、修復される。つまり、別れ別れとなっていた自分の息子とその母親とを、再会させてひとつにひきもどす。息子は母の胸に、母は息子の小さな腕のなかに、それぞれもどって、再出発をするのだろう。しかし、男のほうは、そうはいかない。

 男は、迷子になってしまっている。だからこそ、関係をそもそも壊したのだ。壊した関係が修復されたといっても、自分までそのなかにもどれるわけではない。いまでも彼は、迷子である。関係を壊しうる自分というものは、すこしも変わることなく、そのまま続いている。

 自分がかつて壊した関係を、部分的にせよもとにもどすことによって、男は、心の平安のようなものを、手にいれる。手にいれたとたん、彼は、部分的に修復されたその関係のもとから、去らなくてはいけない。だから、彼は、去っていく。

『パリ・テキサス』は、ぼくにとっては、以上のような映画だ。また別の映画のアイディアになり得るようなアイディアが、整理されきれずに残っていたりするが、シナリオそのものの効率はたいへんいい。そして、筋道を理論的にたどってみても、その筋道は非常に正しい。

 主人公の男性は、ひとりで去っていく。彼ははじめてほんとうにひとりになれたのであり、自分と向きあう作業を、ここから本格的にはじめなくてはいけない。

 彼が自分を道路つまり世の中から自分でひきはがし、ひとりにして荒野のなかに置き、自分自身とのほんとうの対面をはじめるにいたるまでの理論的には正しい営みは、二時間二六分つづく画面を見守った観客の共感を、はたして手に入れることができるだろうか。

 テキサスのいたるところに、ごく当然のことのように存在する現実の景色、あるいはLAの一角が、フィルムのバックドロップとなっている。しかし、ただの景色のなかにさえあるアメリカらしい暴力的な荒涼たるたたずまい、そして寂しい怖さなどは、まるでフィルターをかけて吸いとらせたかのように、なくなってしまっている。これは、この映画の面白い点のひとつだ。

 面白いといえば、彼によって壊される関係がまだ無事だったころの様子が八ミリのホーム・ムーヴィーを映写するという、劇中劇のような作法によって観客に提示される。八ミリは、驚嘆に価する出来ばえだ。

底本:『きみを愛するトースト』角川文庫 一九八九年

今日の動画|Paris, Texas (1984) Official Trailer


『きみを愛するトースト』 サム・シェパード ヴィム・ヴェンダース 映画 荒野
2017年9月19日 00:00
サポータ募集中