アイキャッチ画像

ロミオはジュリエットに誠実に。そして誰もが、それぞれの夏を越えていく(2)

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

1からのつづき)

最近の例を、一冊でいいですから、知りたいのですが。

 僕にとっていちばん新しい例として、グレン・サヴァンという男性の、『ホワイト・パラス』(邦訳は新潮文庫『ぼくの美しい人だから』)はどうでしょうか。まったくの新人の、まぎれもない第一作であり、処女長編小説です。じつに面白い、本当に楽しむことの出来る、いい小説です。面白さの質と、数多く売れるという、ふたつの命題のバランスを絶妙にはかりつつ、そのどちらをも相当に高いところで満足させるという、ポピュラー・フィクションのお手本のような作品です。僕は、大きな感銘とともに、この作品を楽しんだのです。

ある日、ブックストアでみつけたのですか。

 この小説は、一九八七年の七月に、バンタムのニュー・フィクションというシリーズの、最初の二冊のうちの一冊として刊行されたのです。バンタムのニュー・フィクションのエディターは、僕が知ってるかぎりでは、デブラ・ファターという三十歳の女性です。ニュー・フィクションのシリーズは、彼女が提案してスタートさせたものです。

 彼女は、二十五歳のときからバンタムで編集者として仕事をしてきたのです。バンタムは発行点数の多いところで、しかも超有名な作家のブロックバスターをいくつも出していますから、たとえばファターが興味を持っているような小説は、それまでのバンタムの枠のなかで出版すると、完全に埋もれてしまう危険が大きかったのです。別の枠をひとつ設け、そのなかで扱いをすこし変えて刊行してみれば、読者への届きかたやアピールのしかたも変化してくるのではないか、と彼女は考えたのですね。

 バンタムは彼女のその提案を受け入れ、グレン・サヴァンの『ホワイト・パラス』とアン・フードの『メイン州沿岸沖のどこかで』の二冊が、まず出ました。うたい文句によれば、このニュー・フィクションのシリーズは、「現代の関心事に焦点を合わせた小説であり、現役の作家のなかでももっともエキサイティングな小説を書いている人たちの作品を読者に紹介する」ことを目的としている、となっています。

 こういう雰囲気でトレード・ペーパーバックの小説を出すと、たいへんよく売れて二万部程度なのだそうです。しかし、最初の二冊は、いまではどちらも十万部近くは売れているはずです。

 ランダム・ハウスから出ているヴィシテージ・コンテンポラリーズのようなシリーズが、お手本としてあるのです。そして、ほかの出版社もおなじような雰囲気のシリーズを作っていますから、こうした雰囲気のシリーズによる小説が、ひとつのトレンドのように言われていますけれど、僕はトレンドではなく、力のあるエディターたちが発見した、小説の面白さの発展型だととらえています。

 ニューヨークで仕事をしている女性のエディターたちの仕事ぶりを紹介したある雑誌の言葉づかいによれば、さきほど僕が言った、面白さの質の高さは、インテグリティという言葉で表現していました。そして、コマーシャルな結果のほうには、マーケタビリティという言葉が使ってありました。作家やエディター、あるいは出版社のインテグリティと、出来あがった本のマーケタビリティとのバランスを、相当に高いところでとってみせる力を、彼女たちエディターは持っているのです。

『ホワイト・パラス』は、イギリス版の『エル』に詳しい紹介が載って、それを見て僕は作者の名前も作品のタイトルも知ってはいたのですが、ブックストアで見たとき、あ、これだ、と思うことは出来ましたけれど、それ以外にはなにも知らない状態で、グレン・サヴァンの第一作を手にしたのです。一九八八年の十月に、おなじバンタムから、より大きなマーケットを狙って、普通のペーパーバックで出たのです。僕は、それが出てすぐに読みました。

 じつにいい小説です。ニュー・フィクションというシリーズの、うたい文句のとおりの方向にある作品です。僕はこれまでに、いろんな作家の第一作を読んでいます。面白い作品がいくつもあり、それらが読んだ順に過去にむけてつらなっています。そのつらなりのいちばん手前で、『ホワイト・パラス』は輝いていますよ。

表紙だけを見ていると、誤解を招きそうな表紙だわ、と思うのですが。

 マス・マーケットむけにペーパーバックを作ると、こんなふうにもなるという、ひとつの見本でしょう。表紙に描いてあるこの女性は、主人公の男性の相手をつとめる、もうひとりの主役です。読み終わってからつくづく見ると、彼女はこの絵のとおりなのです。

例によって、書評の短い引用がたくさんありますけれど、どれもみな絶賛していますね。

 どの書評もまちがっていない、と僕は思います。

いったい、どんなふうに面白い小説なのですか。

 僕もこんなのを書きたい、と思うほどに面白いのです。

詳しく聞きたいですね。

 ひとりの男性が恋愛をするのです。その恋愛を、彼がどこまで誠実に扱うか、を描いた小説です。ひとつの恋愛を彼がどう扱うかとは、つまり、相手の女性を彼がどのように、どこまで受けとめるか、ということです。男性のほうが主人公に設定してあり、「彼」という三人称で書いてありますから、彼が主人公に見えますけれど、ほんとうは彼と彼女のふたりが、まったく対等に、主役なのです。

 恋愛小説は書きやすいですから、たとえば彼と彼女とのあいだに恋愛関係が発生し、それが進展していく経過だけでひとつのストーリーを書いてしまうことは、簡単に出来るのです。

 彼と彼女はこうして恋愛関係に入り、こうなってこうなり、その途中でこんな障害がありましたけれど、やがてこうなり、結局はこうでした、というふうに書いていくと、ストーリーの進展はあるけれど、それにくらべて彼らふたりの恋愛の内部構造、特に彼がその恋愛に対してどこまで誠実に正直に執着し、まっとうするかという、もっとも重要な問題がどこかに忘れられてしまうことが非常に多いと、僕は感じています。

 考えていくためのきっかけとして、もっとも駄目なかたちの恋愛小説を、ひとつ想定してみましょうか。それはどんなものかというと、ひとりの男性を主人公にして彼の視点から書いてあるとして、その彼は、ストーリーがはじまったとき、すでにある一定の位置や立場を獲得していて、その位置や立場に立った上で、ひとりの女性を好きになり、自分だけのために彼女を手に入れたいと願い、そのための行動をとり、それがふたりの恋愛関係となっていき、起承転結の果てに彼は彼女を得る、というようなかたちをとると思います。

 その恋愛関係のなかでさまざまなことが起こり、彼は大きく動揺したり影響を受けたり、悲しんだり喜んだりするのですが、ストーリーのおしまいの部分からもういちど彼を見なおしてみると、彼はその恋愛を経験することによって、まったく変化していず、彼の立場や位置は、ストーリーがはじまったときの彼の位置や立場にくらべて、なんら変化をきたしていないのです。

自分はそのままで、彼女だけ欲しい、ということですね。

 そうです。彼女を手に入れることが彼にとっての恋愛である、というふうになっていますから、駄目な恋愛小説のなかでは、もっとも重要な問題があっさり見落とされているのです。彼女を相手とする恋愛関係に彼が誠実で正直であるとき、当事者である彼は、自分はこれから彼女を相手に選ぶのだという決意によって、たいへんに大きな影響を受け、変化するはずです。内面の変化、というごまかしやすい部分での変化だけではなく、外面、つまり彼が自分を置く位置や立場もまた、大きな変化をとげるはずだと僕は思います。彼が持っていた、それまでの位置や立場から、彼はその恋愛によってはずれていくはずだ、と僕は思うのです。

 彼女を好きになった彼が、好きになった、ということに対してどのようなかたちでどんなふうに彼自身のインテグリティを最終的には発揮していくのかという、一種のサスペンス小説が、『ホワイト・パラス』です。

『ホワイト・パラス』に登場する彼と彼女は、どんな人たちなのですか。

 舞台は、現在のセントルイスです。男性のほうは、マックス・バロンといい、かつては英語の先生をしていて、いまは広告代理店でライターとして活躍している人です。小柄だけどハンサムな男性で、結婚していたのですが、その妻は自動車事故で死んでしまい、いまはひとり暮らしをしています。

 女性のほうは、彼よりも年上の、三十九歳のノラ・クロムウェルという人です。安いハンバーガーでとりあえず腹をいっぱいに満たすことは出来る、そしてそれだけ、というありかたのハンバーガーの店、ホワイト・パラスで、彼女はカウンターの売り子として働いています。彼女もかつては結婚していたのですが、その生活はとっくに破綻し、ひとりいた子供は事故死しています。

 このふたりが、きわめて日常的な、ほんのちょっとしたきっかけをとおして知り合い、おたがいに恋愛関係に入っていくことから、ふたりのストーリーははじまっています。

 マックスは学歴も教養もあり、広告業界の最前線で有能に仕事をしていて、高給を取り、いいアパートメントに住んでいるという、上中下に分けるなら明らかに上の世界にいる人なのです。

 ところが、ノラのほうは、育った背景も文化も、彼とはまるでちがっていて、価値観もものの考えかたも、なにからなにまで、とりあえずは彼とは正反対のところに位置しています。ほんとうは独特の魅力を持ち、頭は悪くなく、鋭い反応を正しく示すことの出来る、いい女性なのです。しかし現状としては、あと一年で四十歳になるのに、誇りを持つことの出来ない職場で玉ねぎや油の匂いにまみれて働く、だらしない毎日の、一見したところ品のない、上中下で分けるならはっきりと下の世界の住人なのです。

 背景のまるで異なった、しかもおたがいに最初はふさわしい部分のまったくないふたりが、恋に落ちていきます。

『ロミオとジュリエット』の一種ですか。

 なぞらえるなら、きっとそうでしょう。『ロミオとジュリエット』が作品のなかに出てきますから、作者も多少の意識はしているのかもしれませんが、まったくふさわしくない、まるで釣り合わないふたりが恋に落ちるという設定は、彼がどこまで自分のインテグリティに忠実であり得るかを、ストーリーの展開と重ねつつ追いつめていくための、頭のいい工夫なのだと僕は思っています。

 じつに気持ちのいい前進力をたたえた、濁りや曇りのない、くっきりと正直な、信頼感の持てる文体によって、ふたりの恋愛が語られていくのです。物語がどんなふうに展開し、どのような結末を迎えるのか、僕が説明してしまうとルール違反を犯すような気がしますので、ストーリーの紹介はせずに、僕が感じ取った原理みたいなことについてだけ、ここでは語っておきたいと思います。

 頭のいい工夫と言えば、ふたりが知り合うきっかけは、彼のほうが作るのです。ほんのちょっとした、ごく小さなきっかけなのですけれど、そのきっかけを生むにいたった彼の行為は、彼が自分の気質に忠実に従った結果の行為なのです。物語のスタートがこうですから、物語の終わりにおいても、彼は自分の気質に忠実に、行動しています。気質という論理の一貫性がきれいに貫通していて、たいへんに気分がいいです。

 誤解をおそれずに、極端に図式化して説明すると、この物語は、上の人と下の人が、恋愛によってどのあたりまで、どんなふうにおたがいに歩み寄り得るか、ということを描いた小説です。彼が一方的に彼女に合わせるのでもなく、彼女が無理して彼に合わせるのでもない、もっと知的な、冒険と言っていいようなスリリングな歩み寄りが可能なのであり、それがなければほんとうの恋愛は成立しないだろうし、そのような歩み寄りを自己のインテグリティに忠実に、とことん試みてみようとしない男性は、恋愛小説の主人公にはなれないのです。

 この『ホワイト・パラス』は、これまでたくさん書かれた恋愛小説の多くがうかつにも見逃してきた、恋愛のもっとも重要な部分を、一見したところ下世話に、しかしたいへん痛快に、インテリジェントに、描き出しています。恋愛は、ふたりの異なった男女が、いっしょにいたい、共に生きたい、と願ってそのことを実現させようと試みる、その試みのぜんたいですから、片方が降りていくとか、もういっぽうが引き上げるとかではなく、両者がそれぞれの全存在、全人格を賭けて、体当たりのように誠実に、徹底的に、あるひとつのことを共に試みなくてはいけないのです。その試みとは、ふたりが長いあいだいっしょにいることの出来る、共通の位置や場を、ふたりで真剣に模索して見つけ出すことです。

 恋愛のもっとも面白い部分は、おそらくここだと思います。その作業は官能的だし知的だし、充足感は素晴らしいものがあるはずです。『ホワイト・パラス』のふたりは、これを誠実におこなうのです。だから、彼も素敵だし、彼女もまた、非常に素敵です。

 自分たちの恋愛を成立させるためには、インテグリティのすべてを注ぎこんで、ひとつの共通の場をみつけなくてはいけないという、もっとも知的なテーマを、グレン・サヴァンは見事に小説にしています。だからこそ、第一作として、世に出ていけるのです。

 グレン・サヴァンは、この第一作を、自分の父親に捧げています。そして、ふたりの女性に、感謝の言葉を述べています。ひとりは、さきほど話のなかに出て来た、ニュー・フィクションのシリーズの編集長、デブラ・ファターです。そしてもうひとりは、直接の担当者である、ゲイル・ホクマンです。

 それから、女性エディターということに関連していま僕は思い出したのですが、アメリカの『エスクワイア』の編集者に、リサ・グリュンワルドという女性がいるのです。彼女が、一冊の長編小説をかつて書いたのです。『サマー』(邦訳は草思社『あの夏の終わり』)というタイトルで、ペーパーバックになっています。この小説も、じつは彼女にとっての、第一作なのです。とてもいい小説ですから、これについても僕は肯定的な話をしておきたいと思うのですが。

(3へつづく)

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 一九九五年

今日の1冊|Glenn Savan, WHITE PALACE, 1987

0909_whitepalace


グレン・サヴァン 女性 小説 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』
2017年9月9日 00:00
サポータ募集中