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リゾートの島で二十一世紀最大の課題を知る

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 遠い南の海に浮かぶ小さなリゾートの島というものは、僕にとってはたいへんに不思議で奇妙なものだ。これはいったいなになのだろうかと、そのような場所へいくたびに、僕は違和感を楽しむ。グレート・バリア・リーフのなかにあるハミルトンというリゾートの島でも、僕は純度のたいへんに高い違和感を楽しんだ。

 ハミルトン島はそのぜんたいが、いろんなことを楽しみながらゆっくり休暇を過ごすための、リゾートないしはテーマ・パークとして、美しく開発されている。海は素晴らしい。海以外の島の自然も、存分に残っている。スポーツ、娯楽、食事、そして昼寝など、あらゆる快楽が手に入るように、すべて準備されている。

 そこへ僕は、ある日、いきなり到着する。日本からケアンズまでまっすぐにいくなら、八時間ほどだろうか。ケアンズからハミルトンまで、いまは直行便があったりする。飛行機ならケアンズからハミルトンまで一時間だ。いつもの東京での日常をふりきったかと思う暇もなく、僕はリゾートという別世界のなかだ。

 リゾートは文明国のものだ。国も人々の生活もきわめて貧しく、明日という日がまた来ることを考えただけで絶望的な気持ちになる、というような状態のなかで生活している人たちに、リゾートはとりあえずなんの関係もない。文明国のなかで、安定して恵まれた生活をしている人たちが、休暇のためにリゾートへやって来る。

 休暇の人たちを観察すると面白い。どこから来た人たちであれ、どの人もみな、いつもの場所ですでにしっかりと身についた生活や行動の様式、そしてものの考えかたを、リゾートでも強力に発揮している。その発揮ぶりを見ていると、自分自身はなにもしないでいても、興味はつきず楽しい。

 休暇でリゾートへ来たくらいでは、とてもではないが、身についた行動や思考の様式から人は逃れることは出来ないのだなと、あらためてはっきりとわかる。ひとつの場所に腰を落ち着け、毎日毎日おなじような行動を取りながら、ひっそりと時間を過ごしつつ観察しないと、リゾートというものが持っている不思議さには、なかなか到達出来ないだろう。バスでどっと来て写真を撮りあい、日本人むけの定食を食べ、再びバスに乗って次の場所へむかうというような動きかたをしていては、リゾートへなにをしに来たのだかまったくわからない。時間もエネルギーも経費も、すべて無駄だ。

 ハミルトン島のような恵まれたリゾートの島では、いつもなら忙しくてまともには考えていないようなことをじっくり考えるのが、もっとも正しい時間の過ごしかただと、僕は思う。生まれて以来ずっと背負い続けてきた自分たちの文化を、休暇中にも背負っている文明国の人たちを観察していると、じつは自分もそのような人以外の何者でもないということが、身にしみてわかる。たまたま日本に生まれてそこで育ったから、日本人として日本の文化のなかに囲いこまれているだけでしかない自分をひしひしと感じつつ、ほかの国の人たちの観察を続ける。

 誰もがリゾートでの休暇を楽しんでいる。リゾートの島での休暇のなかに、すこしずつ、日常が生まれていく。そしてその日常に、自分もなじんでいく。今日、明日、そして明後日と、なにをしてどのように楽しく時間を過ごそうとも、夕方になると夕食を食べ、そのあとの時間が終わると、あとはどの人も寝るほかない。

 誰もが一様に、夜はただ眠るのだ。今日は楽しかった。明日もまた今日とおなじように楽しいといいね、と思いながら誰もがお休みなさいと言い合い、ベッドに横たわり、清潔なシーツやブランケットの感触を心地良く思いつつ、夜風や星いっぱいの空を受けとめ、眠りにつく。

 眠りに落ちる寸前の、半分は眠っていて半分だけはまだ目覚めているという、たいへん気持ちのいい状態のなかで、僕の頭にひらめくものがある。この地球にいま生きている人たちは、どこの誰彼の区別なく、毎日の終わりにはこのように眠りたいのだ。一日の終わりが誰にとってもこのような眠りであるという、結果における民主主義こそ、二十一世紀の人類の最大課題だなどと思いながら、かつて僕はハミルトン島の素敵なコテージのベッドで、ひとり眠った。眠りがいのある眠りだった、とここに書いておきたい。

底本:『ノートブックに誘惑された』角川文庫 一九九二年


『ノートブックに誘惑された』 リゾート 民主主義
2017年8月13日 00:00