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渡り鳥と寿司について

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 一九六一年には大学の三年生だった僕は、その年の夏を房総半島の館山で過ごした。なぜ館山だったのか、いまとなってはなにひとつわからない。当時の僕は房総半島に関しては完全に無知だったはずだ。学校の友人に教えてもらったのかもしれない。ここの旅館は安くていいよ、海に近いし、というように。長い臨海学校のように夏を過ごす場所として、そこなら最小限の条件は揃っている、とでも判断したのだろう。条件とは言っても、あれやこれやと要求を重ねたわけではない。朝食つきの部屋が、望む期間だけ、海に近い旅館に取れれば、それでよかったはずだ。

 行くときは鉄道だった。当時はまだ内房線とは言ってなかっただろう。房総西線という呼び名だったように思う。旅館はまさに臨海学校の旅館だった。海にも町にもほどよく近く、その意味ではおそらくいい場所だったに違いない。木造二階建ての、これと言って目立った特徴のない、平凡ではあるけれど標準的な条件はすべて満たしている、居心地の良い旅館だった。きわめて気持ち良く開放的だった、という印象が記憶のなかで際立っている。季節は真夏であり、僕はその夏の海へ来た客だったからだろうか。

 すぐ近くに大学の施設があったような気もする。そこに友人たちがしばらく滞在し、海岸でしばしば顔を合わせた。夏の日々をやり過ごすだけで、それ以外のことはいっさいせずに、僕は館山にいた。夏の海へいき、そこでなにかをしようというわけではなかったから、館山までいけばそれですべてはいったん完成だった。晴れた日は海岸にいた。雨の日は部屋にいただろう。スマート・ボールの店をなんとなく記憶している。本は読まなかった。まだ充分に素朴な時代だったから、これといってなにをするわけでもないという種類の素朴さは、たやすく成立した。

 どの程度まで素朴な時代だったか。夏の海にちなんでシャワーを例にとるなら、シャワーという言葉はすでに知られてはいたけれど、実体として夏の海のあちこちに完備している、という状態からはほど遠いものだった。あの夏の館山に、公共の施設としての夏の海のシャワーが、あったかどうか。なかっただろう、と言っておこう。水道の蛇口は、これはいたるところにあった。その蛇口につないだ、妙な青い色のゴム・ホース。シャワーよりはこれだった。連れにホースを持ってもらって頭から水をかけたり、自分ひとりなら片手で頭にかけて髪から海水や砂を洗い落とし、肩や腹を洗い流し、海水パンツのなかにホースの先を入れ、というスタイルで体をさっぱりさせていた。

 朝食は旅館が用意した。昼食はなし。ただし、おやつがある。毎日が西瓜だった。それになぜか煎餅も供された。西瓜を食べたあと、遠くから届いてくる扇風機の風を受けながら、渋いお茶を飲みつつ煎餅をかじるのは、なかなか良いものだった。夕食が必要なら、お昼までに旅館の人に伝えておく。以上のようなきまりだった。

 朝食を食べる場所は一階にあった。二階の端のほうの部屋からそこへ降りていくと、座りテーブルがいくつもならび、座布団が配置され、朝食の準備が人数分、用意されていた。ご飯。生卵。焼き海苔。漬物。味噌汁。魚の干物。いまから四十年前の、きわめてスタンダードな、日本の旅館の朝食だった。

 ご飯を食べる飯碗にくらべると縁の高さが半分ほどの、そしていま少し底が平らで縁も外に向けて開いた容器が誰の席にもあり、その容器のなかには卵がひとつ、ころんと入っていた。この卵を半熟の卵だと思った僕について、淡い苦笑とともに書いておこう。知らないものは知らないのだ。器に入っているのは生卵であり、その卵を割ってご飯にかけ、よくかきまわし、焼き海苔を掌のなかで細かくしてふりかけ、醤油を微妙に少しだけ垂らして軽くかきまぜ、器の縁を口につけてかき込む、という食べかたを隣の席の青年が教えてくれた。

 昼食はいつもきまって寿司で、しかもおなじ店だった。道に面したガラス戸が開け放ってあり、なかに入るとがらんとした長方形のスペースに、当時の日本におけるもっとも簡易な作りのテーブルがいくつか、あっちを向きこっちを向いたりして、成りゆきにまかせて置いてあった。それぞれのテーブルを、これももっとも簡素な構造および作りのストゥールが、適当に囲んでいた。

 長方形の店内スペースの片方には、店主が寿司を握る台があった。陽に焼けてしわの深い、ごましお頭のすっきりと小柄な店主が、豊富なネタを巧みに扱いながら、たいへんな速度で次から次へと寿司を握っていく。握る端から丸い桶のような容器のなかに寿司はならべられていった。一人前が容器にならぶと、脇にいる中年の女性が、それを自分の前に積み重ねていく。そのようにしてすでに握られている寿司を、客は一人前ずつ買うのだ。代金と引き換えに、中年の女性が一人前を手渡してくれた。

 この握り寿司を僕は毎日、四人前、食べた。館山には三週間いた。二十日間を越えて毎日その店に通えば、そして毎日四人前を食べれば、店主に覚えられてしまう。「よく食うねえ。ネタがあればいくら食ってもいいけれど、ほんとによく食うねえ」と、店主は言っていた。一人前の容器に入っている握り寿司は、けっして少ない数ではなかった。飯の玉は大きくネタも雄大だと言ってよかった。とは言え、四人前はさほどの量ではないのだ。なにしろ空腹だし、時間に追われているわけではなかったから、少しだけペースを落とせばいくらでも食べることが出来るように思えた。寿司飯もネタも、いまとは比較にもならないほどに健全な、したがって文句なしにおいしいものだったはずだ。

 午後はまた海岸で過ごし、早めに旅館に帰ると、風呂の用意が出来ていた。広い敷地には和風の庭があり、その庭は菜園とつながっていた。その菜園のなかの道をいくと、敷地の縁とおぼしき位置に、縦穴住居のような共同風呂があった。若い男の海水浴客などには、この風呂を使わせることにしていたのだろう。まんなかがコンクリートを張った洗い場で、一方の壁に蛇口がならび、反対側の壁に沿って、コンクリートの床に風呂釜が三つ、埋めてあった。

 風呂に入り、部屋でぼうっとしていると、やがて夕食の時間となる。時間どおりに一階へ降りていくと、食事をするスペースはすでに半分がとこ、客で埋まっていた。陽焼けだけはまっ黒に深まった体に、どんな夕食が入っていったのか、記憶はまったくない。食べ終えてお茶を飲んでいる頃には、早くも眠たくなった。だから部屋へ上がり、二階の共同洗面所で歯を磨き、蚊帳の吊ってある部屋の布団に体を横たえると、そこは日本の夏の底だった。

 帰りは館山から旅客フェリーに乗った。金谷からだったかもしれない。行き先は東京湾内の竹芝桟橋たけしばさんばしだ。夏だけ航行する夏休みフェリーだ。八月はあと数日を残すだけとなっていた。夏という季節は確かに終わっていくけれど、それと引き換えに自分が引き受けなければならない新たな義務のようなものは、いっさいなかった。いまの自分はなにが不自由でどこが自由なのか、それすらわからない状態で、八月の終わりに僕はひとりでフェリーに乗った。

 午後と夕方の中間のような時間に、竹芝桟橋に到着した。フェリーを降りて歩いていくと、埠頭や港の海に面して、いまで言う特設ステージが作ってあり、その上では歌謡ショーのようなものが進行していた。十数人のバンドを従えて、こまどり姉妹が、舞台の中央で歌っていた。彼女たちがこまどり姉妹であることは、当時の僕にもわかった。しかし彼女たちが歌っているのがなんという歌なのかは知らなかった。BフラットにFセヴンス、EフラットにGマイナーという、よくある歌謡世界だったが、そのときの僕はなぜだかわからないままに、きわめて強くその歌に惹かれる自分を感じた。

 その歌が終わるまで、僕はそこに立ちどまって聴いていた。こまどり姉妹のふたりは、ついさきほど天空から舞い降りた異星の人のように、魅力的だった。風の強い日だった。彼女たちの華やかな着物の、裾や袂が風にあおられ、なびいた。ふたりの声が風のなかを飛んでいき、飛びながらふたつに剥がれそうになり、すぐにまたひとつに重なっていく様子など、いまでも僕は忘れていない。

 電車で新宿へいき、そこから小田急線で下北沢まで、僕は帰った。下北沢南口の商店街を下っていき、確か長田楽器レコード店という名前だった店に入り、桟橋で感銘を受けたばかりのこまどり姉妹のその歌を、シングル盤で買った。「歌うソーラン、ああ、渡り鳥」という部分を歌ってみせると、これですよと店主は言い、『ソーラン渡り鳥』を一枚、抜き出してくれた。

 その日の夜、久しぶりの自宅の自分の部屋で、明かりを消して何度も、『ソーラン渡り鳥』を僕は聴いた。開いてある窓から入って来る夏の夜風に、音量を落とした『ソーラン渡り鳥』が繰り返し重なった。この歌のなにかが、いま直接に、僕のなにかと触れ合っている、と断言することは確実に出来たけれど、それ以上のことには思いも考えもいたらず、ただ繰り返しそのシングル盤を聴いていたのが、二十一歳の僕だった。

 歌詞の字面を眺めるかぎりでは、当時もいまも、『ソーラン渡り鳥』は、僕にはなんの関係もない。津軽の海を僕は知らないし、江差やにしん場ともまるで無縁だ。三味線は弾けないから想いは込められないし、唄えもしない。苦労を愛嬌えくぼに隠し、越えて来たこの世の山や川が、いったいいくつあったことだろう、といった幼い頃からの苦労も、なにひとつ体験してはいない。

 こうした叙情歌謡で多用される、ほとんど記号と言っていいような、しかも文芸的で定型的な言葉の数々をすべて取り払うと、『ソーラン渡り鳥』は、生きていく苦労とはなになのかという人生の真実が、結晶のようなかたちでメロディになっているものなのだ、といまの僕は理解する。竹芝桟橋で館山からのフェリーを降りた、ただ陽焼けしていただけの二十一歳の僕は、自分が受けとめた『ソーラン渡り鳥』のなかに、かなりのところまで抽象化されたものだったかとは思うが、生きる苦労とはなにか、という問題を見たのだろう。

 それもそのはず、と言っていいだろう。私立大学の法学部の学生として、モラトリアムという少しあとで流行語となったありかたないしは状況を、僕は一身に体現する日々を送っていた。高校を卒業したあとの四年間、社会からほとんど切り離された状態で、僕はいっさいなにもしていなかった。なにか特定の勉強をするために大学に入ったのではなかった。時間稼ぎだった。いまはまだとても世に出ていける状態ではないので、いま少し猶予をください、ということだ。モラトリアムそのものではないか。

 僕がたまたま試験に合格して通学することになったその大学のその学部は、日本のエア・ポケットと言うべきか無風地帯とでも言えばいいか、とにかく授業料を滞納せず学生であるかぎりは、強制、介入、割り込み、指導、補導など、いっさいないままに放置されていた。ほとんどなにもしなくてもいいのだから、その意味では手厚く保護された、猶予の時間とその環境だった。これが四年間続いた。館山で過ごした夏は、そのハイライトではなかったか。

 房総の館山で夏を過ごしたことは、そのようなことを確かに僕はしたという、なにかをおこない体験した一例としてとらえるべきものではなく、そのまったく逆に、いっさいなにもしていなかった猶予の時間の過ごしかたの一例として理解すると、しっくりと落ち着く。猶予の時間とその環境がどうしても必要だったとは、自分で自分をさらなる自分へと特化させることだけがかろうじて出来て、それ以外のことには完全に手がまわらない状態だった、ということだ。

 大学生の日々を終えると、卒業のその日を厳格な境界線として、学生として保護された猶予の時間と環境は、いっさい消えてなくなる。そしてそうなったときの自分にあるのは、教養なし、専門知識なし、専門技術なし、手に職なし、資産なし、人脈なし、後ろ楯なし、仲間なし、学歴すらないも同然、そして覚悟もまだ出来てはいないという、ないないづくしの丸裸の自分ひとりだけだ。そのような自分が孤立無援のままに無手勝流で引き受けざるを得ないのは、丸裸でいそしみ励んで身を粉にする、労働の日々ではないか。

 あとひと夏の猶予はあったとは言え、大学の三年生ともなればこの程度のことは、体のどこかに確実に居ついた異物を自覚するかのように、認識出来ていたはずだと僕は思う。自分をさらなる自分へと特化させていくとは、自分を可能なかぎり丸裸にした上で、その自分を全面的に引き受ける用意を整えることにほかならない。一九六一年も二十一歳だった僕も、ともにどうでもいいけれど、おおまかには以上のような意味から、こまどり姉妹の『ソーラン渡り鳥』はいまも忘れがたい。

 (底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年)

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2017年7月23日 00:00
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