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海へ、来い! 海辺の博物館を訪ね歩こう。 僕はスティングレイになりたい。

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 列島の太平洋側を低気圧が通過した次の日、美しく晴れた空の太陽は、富士山をくっきりと浮かびあがらせて、見せてくれていた。その太陽の光は、三保の松原がある小さな半島とその海にも、明るく注いでいた。

 海には、若い女性のウインド・サーファーがいた。陸には、堀江謙一さんのマーメイドⅢ世号があった。六十トンの海底トレンチャーがあった。津波に襲われる海辺の町があった。海のどこかで生まれた波が、うねりとなって進んでいく様子を見せてくれる模型があった。そして飛行艇UF—XSがあった。

 マーメイドⅢ世号は、地球の海を単独無寄港で一周してきたヨットだ。陽ざしを静かに受けとめている船体をつくづくと見ていると、この小さなヨットが体験した海の想像を、僕ははじめてしまう。

 想像が佳境に入るまえに、僕はマーメイドⅢ世号の前を離れた。そこに一日立ちつくしても、想像はつきないからだ。飛行艇の下に、僕は立った。子供の頃、アメリカ海軍の飛行艇に何度か乗った。着水も離水も体験した。着水する様子を至近距離から見たこともある。だからこの飛行艇もまた、海をめぐってつきることのない想像のきっかけだ。

 飛行艇の底が、素晴らしい。あの独特な曲面と広がりは、そっくりそのまま、海そのものなのだ。優秀な飛行艇であったUF—XSは波高二・五メートルの荒海での短距離着水と離水が出来た。着水するとき、最初に海面を叩き割る船底に掌を触れることは、高度に抽象化された海そのものに触れることだった。僕は、飛行艇の底を撫でまわした。こういう抽象化が、僕はたいへんに好きだ。

 白く輝く海洋科学博物館に入るまえに、もうひとつ、僕を誘惑するものがあった。波の模型だ。鉄の板を機械で動かして波のエネルギーを起こし、それがうねりとなって海上を伝わり、やがて浅瀬に乗り上げて消えるまでが、博物館の前に模型で作ってあった。波も、じっと見ていて飽きるものではない。

 波は、あの波の形をした水の塊が、海の上を突進していくのだと思っている人はたいへんに多いけれど、水自体は進まない。水の分子は円運動をくりかえしているのであり、進んでいくのはエネルギーだけなのだ。

 僕が波乗りをはじめたのは、この科学的事実を知ったときからだ。サーファーは、波に乗るのではなく、波のエネルギーに乗るのだ。何人もの人たちに僕はそのことを説明したけれど、理解してくれる人はきわめて少数だった。

 この波の模型の隣りには、津波の実験水槽もあった。高さ十五メートルという大津波を、五十分の一に縮め、再現して見せてくれる。これは、もうすこし大きいと、迫力はまるでちがってくるようにも、僕は思う。しかし、大きければいいというものでもないだろう。模型には、それぞれにふさわしいスケールというものがあるのだ。

 模型の魅力や能力に、僕は子供の頃から強くひかれ続けている。模型は、世界を縮小して抽象化し、その抽象の先端にある針先のような具象によって、世界を理解する最初のきっかけを作り出すものだと、僕は考える。博物館は、そのような模型の宝庫だ、すくなくとも、僕にとっては、そうだ。

 海洋科学博物館にも、興味のつきない模型が数多くある。入ってすぐのところにある十二本の円柱水槽、そしてその奥の、世界一という縦横十メートル、深さ六メートルの水槽は、そのなかで泳ぐ魚は実物であり、その魚の環境は模型だから、具象と抽象を同時に目のあたりに見ることが出来る。水族館の水槽を前にするたびに感じる不思議な感銘は、模型というものが持つ能力が生み出すものだ。

 地球を直径が一メートルの模型にすると、海水の総量はわずかに六六〇ミリリットルでしかない。そのことを具体的な形で教えてくれる模型がある。巨大な海といえども、じつはないに等しい。地球の直径を一メートルにすると、人間など消えてなくなるから、海の水は六六〇ミリリットルでもいっこうにかまわない。しかし、縮小された模型という手品は、どこか魅惑的だ。

 泳ぐ生き物の動きを機械メカニズムで部分的に再現して見せてくれる模型は、たとえば一匹の平凡な魚の尾ひれの、一回の動きが、いかに神秘に満ちているかを、やや遠まわしに理解させてくれる。

 波の力から海岸を守るテトラポッドの役割を見せてくれる模型は、現実のぜんたいを模型化すると、もっとスリリングになるはずだと僕は思う。静岡には、一例をあげるなら、安倍川の砂防ダムとそれによって砂の供給を断たれた久能海岸の浸蝕という、恰好の実例がある。建物の横幅いっぱいに、そのような事実ぜんたいの模型が出来ている様子を、僕は夢想した。

 厚さ一センチの特殊鋼で作った中空の球を、深さ一万メートルの海に沈めると、そのボールは原形をとどめないほどにはじけ、つぶれる。はじけた部分に指先を触れるなら、一万メートルの深海が持つ途方もない力の一端を、人は直感出来る。

 波の一生、という模型も僕を強くとらえた。うねりとなって伝わってきた波が、海岸に乗り上げては消える部分を、僕は飽かず眺めた。僕が自分の体で直接に関係を持つ海が、抽象化されてそこにあったからだ。

 和歌山県太地町の、くじらの博物館のすぐ近くに、キャッチャー・ボートが一隻、初春の陽ざしを浴びていた。それを見て、僕の胸はときめいた。軍艦を別にすると、キャッチャー・ボート(捕鯨船)はその形がもっとも精悍な船であり、目的も最高に勇壮だと、少年の頃の僕は思っていた。その思いはいまでも変わらず、キャッチャー・ボートに対する憧れは変化なく続いている。僕は、少年としては、キャッチャー・ボートに憧れた世代の最後に属する。

 紀伊半島最南端の海のすぐそばで、陽を受けてきらめいていた捕鯨船は、かつて南極の海で大活躍をした、第十一京丸という船だった。いまは陸に上がり、コンクリートの台座の上にすわっていた。

 熱意を抱えて東京から訪ねてきたひとりの人として、前むきの苦言を呈するなら、この捕鯨船は陸に上げてもいいから、外部と内部を当時のままに保存しておいてほしかった。資料の陳列ケースは、隣りのくじらの博物館の一角に、充分におさまるではないか。船内を現役当時のままに残してこそ、陸に上げた意味もあるのではないか。たとえばエンジンも、もはや使うことはないからといって、あまりに無残な姿にはしてほしくない。

 キャッチャー・ボートの外には、しとめた鯨の尾ひれにひっかけて牽引するための、鉄製の大きなクロー(爪)が展示してあった。かつて少年雑誌の図解で何度となく見た、捕鯨船団の活躍の様子のなかに、このクローが描かれていたのを、いまでも僕は覚えている。

 あれは、これだったのか。あるいは、これが、あれだったのか。感銘とともに僕は重量三トンの爪に触れ、爪のあいだに我が身を置いてみた。鉄の爪のあいだで、しとめられた鯨の思いに僕は共感し、その鯨の尾ひれのつけ根をこの爪ではさむ作業の難しさを、夕陽のなかで思った。

 南氷洋と北洋で、あわせて一万二千数百頭の鯨を捕獲したという第十一京丸に別れがたいものを覚えつつ、僕はくじらの博物館に入った。一階から三階まで、鯨と捕鯨に関する貴重な資料が、数多く展示してあった。

 吹き抜けの空間に吊るしてある、巨大な鯨の模型は圧巻だった。実際に捕れた鯨から石膏で型を起こして作ったという、実物大の模型だ。この模型と、時代による捕鯨のしかたのちがいを模型でガラス・ケースの内部に見せてくれるジオラマの対比は、博物館が持つ魅力というものの、ひとつの頂点だと言っていい。

 博物館に展示してあるものの前をめぐり歩いていると、それまでまるで知らなかったことについて、瞬時のうちに知ることが出来る。知るということは、明るくきらめいた、輝かしいことなのだ。世界は、その人の頭のなかで、晴れやかに広がるのだ。再び肯定的な苦言になるが、くじらの博物館の建物と展示のしかたは、貴重な展示物の魅力を存分に引き出しているとは言いがたい。日本の博物館のなかでよく体験する、残念な寂しい気持ちを、ここでも僕は体験した。

 太地町は、日本における捕鯨の発祥地として知られている。捕鯨の歴史は、七百年という期間にまたがっている。知るに値することがらは、その歴史の内部に充満している。鯨について、ほんのちょっとしたことをいくつか知るだけでも、博物館を訪れる価値はある。

 鯨とイルカの区別を、知っているだろうか。じつは、鯨の小さいものを、イルカと呼んでいるにすぎない。だいたい四メートル以下の鯨が、イルカと呼ばれる。

 イルカは、音に対してきわめて敏感だ。音に対して、敏感に、そして複雑に、反応する。反応するからには、発信も出来るのではないかと考える研究者たちが、人間に対するイルカからの発信を解読しようとして、研究を続けている。

 博物館のプールでショーを披露しているイルカたちからの発信を、解読出来る日がかならず来るだろう。イルカは、人間に、なんと言うだろうか。もういいかげんにしてください、などと言うかもしれない。

 いまの子供たちが、学校で魚の絵を描くと、妙な四角いものを描いて、これが魚だと言う子供がいたりする。これは切身という魚なのだと、その子供は言う。僕の作った冗談ではなく、本当の話だ。僕が子供だった頃には、鯨の絵をしばしば描いた。そして鯨を描いたなら、その鯨はかならず潮を吹いていた。

 鯨の潮吹きは呼気であり、噴潮あるいは噴気とも呼ばれている。シロナガスクジラの吹く潮は、二十メートルの高さに達する。ナガスクジラの噴潮は、十メートルにもなる。

 キャッチャー・ボートの高いマストの上から、海面を遠くまで見渡して鯨を発見する人は、まずほとんどの場合、この噴潮を頼りにしていた。晴れて風のない日には、十五キロも離れたところからでも、マストの上の人は一本の噴潮を見逃さなかったそうだ。

 噴潮を頼りに鯨をみつけるだけではなく、その鯨が捕獲の労力に値するだけの鯨であるかどうかも、噴潮一本で的確に判断していたという。鯨がもし潮を吹かなかったなら、捕鯨船団が活躍するようなかたちでの捕鯨は、発達しなかったにちがいない。

 くじらの博物館から十五キロ離れた海上に、シロナガスクジラの潮吹きの模型があるといいのに、と僕は思った。時間をきめて一定の間隔で、その模型は本物そっくりに潮を吹き上げるのだ。そして、陸に上げたキャッチャー・ボートのマストの上から、人はその潮吹きを発見してなにごとかを学ぶ。

 明日は雨になるだろうという、快晴の太地をあとにして、夕方の国道を僕はタクシーで串本へむかった。五十代なかばを越えた年齢のそのタクシー・ドライヴァーは、かつては船乗りであり、キャッチャー・ボートに乗り組んで南氷洋へ何度となくでむき、帰ってくるとこんどは北洋へいっていたという、海の男だった。

 串本までの道中、彼が語る話は、じつに興味深いものだった。海で過ごした日々が作った世界観に、持って生まれた気質が重なった結果だろう、彼が人にあたえる感触は、明るい外向性の爽快なものであり、男性のありかたとして、もっとも好ましい見本のひとつのような人物だった。子供の頃、キャッチャー・ボートに憧れた僕の、その憧れの裏づけを、ようやくいま、僕は彼から得た。

 捕鯨禁止の問題について話がおよんだとき、自分の結論として彼は次のように言った。

「日本人は、捕るとなるといろんな工夫をして、うわあっといっせいに、みんな捕るからね。あれは、いかんね」

 串本の朝は、雨だった。宿で目を覚まし、ガラス戸のカーテンを開くと、むかいは大島と歌にあるあの大島が、目のまえにあった。夜のあいだずっと、僕はガラス戸を開いたままだった。夜の潮風をすこしだけ感じつつ眠るのは、快適なことだ。

 串本の錆浦さびうら海域は、日本で最初に海中公園に指定された地域だ。南西諸島に次いで見事な石サンゴの群生があり、特にテーブル型サンゴが階段状に群生する様子は、貴重なものだ。そして黒潮の影響で、魚の種類はたいへん豊富だ。

 雨の国道四十二号線から見渡す海中公園には、研究所、水族館、海中展望塔、そしてグラス・ボトム・ボートで海のなかを見ることの出来る海域などが、僕を待ちかまえていた。

 深さ六メートル以上の海に降りることの出来る海中展望塔は、残念ながら僕むきではなかった。閉じられたせまい場所が、僕は得意ではない。そうではない人にとっては、貴重な場所だ。六メートルの海底なんて、なかなかいけるものではないのだから。

 水族館の水中トンネルは、海の底に作ったガラス張りのトンネルだと思えばいい。このトンネルのなかには、僕は一日いても飽きない。僕にとっては、特に、エイが素晴らしかった。親近感、共感、一体感などをつき混ぜたような感情を、かねてより僕はスティングレイ(エイ)に対して抱いてきた。次はエイになりたい、と思うこともよくあるし、僕はもとはエイだったのではないか、とも思う。

 海中を飛ぶように泳ぐエイの姿は、生命という機能がそのままデザインとなった結果としての、優美さの勝利だ。エイのデザインと動きを越えるものを、僕はほかに知らない。

 暗闇のなかのヒカリキンメダイの光。人の手などたやすく食いちぎる海亀の口。外洋性の海亀の背にあるキールなど、海は今日も僕を興奮させてくれた。

底本:『永遠の緑色』(自然人のための本箱)岩波書店 1990年

今日のリンク|エイ(Ray)のドキュメンタリー。”デザインと動き”を堪能できます|BBC

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2017年7月17日 00:00
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