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『さようならの季節』

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一九六二年一月/日活〔監督〕滝沢英輔〔出演〕浜田光夫・香月美奈子 他

『さようならの季節』は一九六二年の一月十四日に公開された、カラーで七十二分の作品だ。原作はなく、『草を刈る娘』の三木克己と才賀明のオリジナル脚本によっている。無理な省略や、あとで唐突に明かされるその間の事情などなしに、物語の展開をその時間に沿って、一定のテンポで過不足なく穏やかに描いている。その限りでは良く出来た作品だ。

 ブラジルへ移住する人たちを乗せた〈あるぜんちな丸〉という客船が、横浜を出航するまであと五日、という設定が効果を上げている。その効果を製作者たちは充分に自覚していたのだろう、画面のなかで時間が経過していくにつれて、二日目、三日目と、画面の脇に白く文字があらわれる。出航するまでにあるぜんちな丸はいったん神戸へいき、西日本や四国、九州などからの移住者たちを乗せ、横浜へ戻って来る。そして横浜の移住者センターで待機している移住者たちを乗船させ、四十日かけてブラジルへと向かう。

 移住者センターの建物はコンクリートの四角い三階建てで、内部の殺風景な部屋には二段ベッドがぎっしりとならび、人々はそこで出航までの仮の寝泊まりをしている。そのなかに殿村さん一家という家族がいる。殿山泰司が演じる殿村さん、その妻、まだ幼い長男、そして次女の幸子。この幸子を吉永小百合が演じている。加代子という長女は、ブラジルへいくのは嫌だと言って、まだ田舎にいるときに男と駆け落ちして東京へいき、いまは行方不明だ。

 一家のなかに労働力が三人いないと、一家全員の移住は認められないという。殿村さんの奥さんは心臓に不調があり、横浜であらためて健康診断を受けた結果、労働力とは認められないことになった。こういうときの急遽の策として、次女の幸子を独身で移住する青年と書類の上だけの夫婦とし、一家のなかに規定どおり三人の労働力がいることにして海を渡る、ということが現実におこなわれ、それは珍しいことでもなんでもなかったようだ。日本政府の末端の小役人が、この者は労働力であると認めれば、誰彼構わずその者は労働力となる。認めなければ欠員ができるから、それはどんな方法でもいい、誰でもいい、規定のとおりに埋めるなら、渡航は認められるということだ。

 単なる労働力の、単なる手続き上の頭数の問題だから、彼らのあいだに発生するせつない互換性は無限だと言っていい。単なる労働力によって担われる労働とは、基本的にそのような性質のものなのだが、この上にさらにもうひとつ、ブラジルへの移住というせつなさが重なる。なぜそれは、せつなさなのか。殿村一家の事情が、それを言外によく物語っている。殿村さんは「百姓」だ。故郷は秋田県あるいは青森県ではないか。もともと零細な農家であることに加えて、殿村さんはこれまでに何度も、人に騙されてきた。そのたびに一家の生活は困窮の度合いを深め、今年の台風では洪水で田畑が流されてしまった。

 困り果てた末にたどりついたのが、ブラジルへ移住するという選択だった。彼の選択であると同時に、移住に向けたさまざまな働きかけが、政府機構の末端から、彼のような人たちに向けて、盛んにおこなわれたはずだ。映画のなかの架空の設定は、そのまま当時の日本政府を映し出している、と僕は判断する。台風で田畑を失った農家を、日本政府は救わなかった。

 神戸へ向かう前のあるぜんちな丸が、横浜に停泊している。現在の山下公園を中心にその近辺が、撮影のおこなわれた一九六一年十二月の実景として、画面にたびたびあらわれる。実写されたこれらの光景を基点にして見る現在の、なんという変わりようであることか。あるぜんちな丸の出航五日前の山下公園で、幸子は同郷の幼なじみである三宅高志という青年と偶然に再会する。三宅も東北の村を出た。横浜で回漕業を営む伯父のところに住み込み、若い者のひとりとして小さな船で伊豆大島へ物資を運んだりしている。殿村一家の事情を三宅は幸子から聞かされる。いきたくもないブラジルへ姉の身代わりでいくなんて間違っている、と彼は言う。しかし出航まであと五日しかない。なんとかならないかという出口のない思いのなかで、幸子と三宅はおたがいに急速に惹かれていく。

 移住センターの殿村さんのところへ警察が訪ねてくる。長女の加代子が見つかった。五反田の飲み屋にいたという。両親が会いにいって説得したが加代子は応じなかった、という説明のあと、三宅が彼女に会いにいく。当時の五反田を見ることができる。国鉄と東急池上線が重なり合うような高架の下あたりに、その飲み屋は設定されている。

 幸子さんはお姉さんの身代わりでブラジルへいこうとしています、しかも見ず知らずの男と書類上とはいえ夫婦になって、などと三宅は幸子の現在について語る。駆け落ちした男とはすでに別れたが、その男が作った十万円の借金のかたにいま私はここにいる、と加代子は言う。

 十万円あれば加代子は自由になれる。十万円の借金を三宅は伯父に申し込む。馬鹿を言うな、と彼は一喝される。この伯父には節子という娘がいる。お嬢さんと呼ばれてなに不自由ない生活をしている。三宅に対して恋愛の感情を抱いている。幸子の存在も、加代子をめぐるいきさつも、節子は知っている。十万円によって加代子は自由になり、ブラジルへいくことを決心するならば、身代わりの幸子はそこから解き放たれて日本にいることが可能になる。それを三宅が望んでいるのだから、その望みを実現するために自分は加担する、という論理で節子は父親を説きつける。

 十万円の借金は可能になったようだ。自由になった加代子は荷物を持って移住センターにあらわれ、私はブラジルへいきます、と家族に言う。日本に残る幸子は、三宅の伯父のところに住み込んで働くことになる。幸子と書類の上だけの入籍をしていた青年は、美しくて聡明な幸子にいまや充分に惹かれている。ブラジルであらためて結婚を申し込むつもりだったが、そんな夢も消えてしまった、と彼は幸子に語る。渡航を取り消した彼は船を降り、故郷へ帰ってしまう。

 労働力ひとり分の空白が、こうして殿村一家にふたたび発生する。その空白を幸子が埋めるのか。それとも、一家はブラジル移住を断念するか。ここまで来ていまさら、お前さえ決心してくれたら、というような家族からの説得のなかに取り込まれていく幸子は、私ひとりのわがままでみんなに迷惑をかけてはいけない、という理屈で自分をあと押ししなければならない。

 書類上のつじつま合わせとしての互換性の物語であるこの『さようならの季節』は、ブラジルへの移住に関して、批判的ないしは悲観的な立場をとっている、と僕は判断する。移住センターのコンクリート建ての四角い無愛想な建物。その内部の殺風景な空間に二段ベッドがぎっしりならんでいる様子。移住によってかなう夢を主題にしたポスター。移住センターに常駐している役人の、風体や態度、そして言葉づかい。人々が予防接種を受ける光景。渡伯記念送別会、と大書した白い幕を壁に掛けただけの、あとは机と椅子がならぶコンクリートの部屋でおこなわれる送別会の異様な雰囲気など、すべて批判ないしは悲観の産物だ。そしてその上に、幸子と三宅の物語が重ねてある。地球の裏側へと去る幸子の船を横浜の埠頭ふとうで見送る三宅という、実ることのなかった悲しい恋の物語だ。そしてこの恋物語によって、ぜんたいは救いがたく甘いものとなっている。

 家族とともにブラジルへいくことを幸子が決意するのは出航の前日だ。そしてその日の三宅は船で大島へいっている。明くる日、出航の日の昼過ぎには、帰ってくるという。三宅の船は遅れる。あるぜんちな丸が埠頭を離れようとしているとき、三宅はそこに駆けつける。出航の光景そのものは、実写されたものではないかと僕は推測する。撮影の期間中に、あるいはその前後のごく近い時期に、あるぜんちな丸の出航が実際にあったのではないか。華やかでも楽しそうでもなく、その逆にあきらかに陰鬱に、出航という決定的な場面がとらえてある。演出された出航の光景なら、撮影の腕前はたいへんなものだ。雨は上がったがまだ曇ったまま、という印象の空の下で、午後が夕方へと変わる時間の、そのときそこにあった光で撮影されている。秋田県、青森県と、白く染め抜いた大きな旗が、埠頭を埋める見送りの人たちの頭上に揺れている。

 舷側で埠頭を見下ろしている殿村さん一家、そして少し離れた位置で埠頭に三宅の姿を見つけようとしている幸子は、もちろん簡単に作ったセットを使って撮影されている。幸子と三宅は、おたがいの姿を発見することができずに終わるようだ。岸壁を離れた客船は思いのほか急速に、港の外に向けて遠のいていく。「馬鹿野郎!」と三宅は叫ぶ。青年が「馬鹿野郎!」と叫ぶ場面は日本映画のなかにある定番のひとつだ。ほとんどの場合は、そう叫ぶ当人のへまに起因するフラストレーションを、当人がごく幼いかたちで吐き出すだけだが、この場面の「馬鹿野郎!」は、二度と会えない絶望感の表現であると同時に、ブラジル移住にも向けられている、と僕は理解する。

 幸子が家族とともに海の彼方へただ消えていく過程の最後の部分に、たまたま三宅が居合わせただけの物語となっているこの『さようならの季節』の、甘さの象徴のひとつとして、「惜別の歌」という主題歌を例にとることができる。昭和ひと桁(けた)の時代を思わせるほどに古風な、しかしそれゆえに澄んだ悲しみのいきわたった、惜別という言葉にふさわしい感傷の歌だ。夜の公園で幸子と三宅が語り合う場面にこの歌が重なり、その歌声は吉永小百合のものだ。日活の映画ならではの、主題歌とそれを歌う主演女優の、現実と虚構をまたぐ関係はここでも維持され、幸子は吉永小百合の歌声に合わせて、歌っているかのように唇を動かす。

『さようならの季節』のような作品に関して、僕が感じる根源的な不満について書いておこう。百姓は嫌だ、ブラジルまでいってさらに百姓をするのはもっと嫌だ、という加代子の主張はどこへいったのか。五反田の飲み屋から受け出されて自由となり、身代わりを務めていた幸子をそこからはずし、自分が収まる。幸子もブラジルへはもともといきたくない人だ。加代子の家出によって生まれた空白を、幸子はしかたなく埋めていた。その幸子と加代子があっさり入れ代わるとは、どういうことなのか。

 互換性のきく農業労働者たちの、ブラジルへと移住するにあたっての、手続き上の穴埋めごっこはさらに続く。幸子が抜けると、彼女と書類上の結婚をしていた青年も、ブラジル行きを取りやめにし、下船して田舎へ帰ってしまう。ひとつの家族に三人の労働力が必要である、とする手続き上の要件にこうしてふたたび不足が生まれる。だからその空白のなかへ幸子が戻る。ここに幸子と三宅の悲恋が重なる。なぜ悲恋となるのか。幸子がブラジルへいくという、ただそれだけの理由でそうなる。この意味では、ふたりにはまだなんの関係も出来てはいない。悲恋などそもそもありはしない。

 なぜ幸子はブラジルへいくのか。自分のわがままでみんなに迷惑をかけるわけにはいかない、と幸子は言う。いきたくないブラジルへいかないのが、なぜわがままなのか。零細農家の娘として十八、十九まで生きてきた人の本能が、ブラジル行きに対して拒否の反応を強く示しているのではないのか。身の危険を察知している、と言ってもいい。そのような自分の能力に、なぜ幸子は従わないのか。これまで彼女の父親はさんざん人に騙されてきた。ブラジルへの移住は、そのことの延長線上にあることなのではないか、となぜ彼女は疑わないのか。

 現実を手もとに引き寄せ、その底にある実態を知るために、なぜもっと言葉を使わないのか。この言葉が決定的に足らない。殿村さんはその典型だ。労働力に欠員が出来たり埋まったりするたびに、彼は困ったり喜んだりしているだけだ。このような甘さを、一九六二年の日本の観客は、すでに求めてはいなかったはずだ。現実を手もとに引き寄せる試みは、自らに関してこそ、もっとも厳しくおこなわれるべきものだ。

 幸子と書類上の結婚をした青年は、幸子が抜けて自分もいく気がしなくなった、という理由を告げただけで消えてしまう。消える前に、殿村や幸子を相手に、自分のありったけを賭けた一対一の議論がぜひとも必要だ。その議論によって、ブラジル行きを選んだ根拠の希薄さが見えてくると、そのすぐ先にあるのは、そのような希薄さの主体である自分たちだ。ただ流されていくだけの自分たち、というものがしっかりととらえなおされるなら、下船というかたちで踏みとどまる選択が、可能になるのではないか。

 加代子と幸子のあいだにも、言葉は決定的に不足している。ブラジルへいくと言う姉を、幸子はなぜ止めないのか。なぜ議論しないのか。逆のことが加代子にも言える。なぜ加代子は、幸子の決意を覆そうとはしないのか。翻意や決意の底にあるものを、徹底した言葉であきらかにしようとしないのは、いったいなぜか。殿村一家は出航の直前で船を降りるともっともいい。船は遠のく。見送りの人々は去る。自分たちだけ埠頭に残されるが、その自分たちとはいったいなになのか、そうなって初めて、おぼろげにしろようやく、なんとか見えてくるのではないか。見えてきたものだけを頼りに、そこから一家の再生の物語は始まっていく。

 家族に迷惑をかけることを思うと、自分はブラジルへいきたくない、日本にとどまりたいとは、この状況のなかではとても言えないというだけの理由で、自分の気持ちも意志もすべて小さく折りたたんでいくと、私もブラジルへいきます、という幸子の決意になる。そしてこの決意が生み出すのは、海の彼方へただ消えていくだけ、という物語だ。そしてこれは、吉永小百合には似合わない。そのことが最後にわかる。

 自分を取り巻く状況がどうであれ、自分はとにかくブラジルへいかない、という意志を貫きとおすドラマのなかに彼女を置いたら、どうなったか。意志をとおすまでの事態の曲折、気持ちの揺れ動き、いかないという最終的な決断などすべては、自分と三宅を最優先する意志へと、最後は固く結実する。そしてそのような意志は、誰にとっても良い子になることへと向かう意志とはまったく逆のものとなるから、物語のぜんたいがその根底から引っくり返る。

(底本:『吉永小百合の映画』東京書籍 二〇〇四年 *前掲ポスターは編集部による参考資料)

今日のリンク|”2日後”の18日は「海外移民の日」|「ブラジル移民の100年」(国立国会図書館)

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