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オカズヤのオイナリサン

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 稲荷ずしは子供の頃からよく知っている。好きな食べ物のひとつだ。スティームド・ライスを食する方法として、たいそう好ましいではないか。しかし、子供の頃からずっと、出来不出来はあるにしても、稲荷ずしはどれもみな稲荷ずしでしかない、と僕は思っていたようだ。そして一九六八年のマウイ島ラハイナで、僕はこの考えを決定的にあらためることとなった。

 僕にとってのハワイは、祖父そして父親へとつながる、日系の人たちのハワイだ。彼らはハワイにおける日系市民の当事者だったが、そのすぐかたわらにいたとは言え、僕は当事者ではない。しかしハワイの日系社会は僕にとってきわめて懐かしい世界であり、ハワイへいけば日系社会の片隅に身を置き、自分にとってのさまざまな親近感をいろんなふうに楽しんできた。

 一九六八年の五月、僕はラハイナにいた。父親の幼なじみを訪ねてお昼になり、食べていきなさいと言われて食卓に出てきたのが、稲荷ずし、そしてそれをほどよく取り巻く、ハワイの和食の数々だった。その稲荷ずしは良く出来ていた。材料と作りかたの融合が生み出すおいしさというものは、その頂点に達していた。とは言え、特別のものでもなんでもないのだが、良く出来た稲荷ずしのおいしさを、御馳走になる人として普通に賞味する以上の体験が、そこにはあった。

 一九六八年の僕はまだ二十代だったが、二十代としてはすでにいい歳であり、おそらくそのせいだろう、良い稲荷ずしではあっても、単に稲荷ずしとして食べてそれでおしまい、という幼さとはさすがに決別しつつあった、といまの僕は思う。そのときラハイナで食べた稲荷ずしは、良く出来ていてしたがっておいしかっただけではなく、日系の人たちがその背後に持っている歴史のニュアンスをも、充分に持っているものだった。稲荷ずしとともに、その歴史をも、僕は食べた。

 僕の祖父は山口県からハワイに渡った人だ。父親の幼馴染みの親友やその奥さんの両親も、おそらくその近辺の出身者だったろう。日系一世の歴史は明治までさかのぼる。明治の頃から、さらにはそれ以前から、自分たちの日常のものであった稲荷ずしの作りかたと味が彼らのあいだに継承され、ハワイにおいても受け継がれて一九六八年にいたり、それを僕が食べた。そもそもの出発点からの歴史と、ハワイでの日常のなかで引き受けた微妙な変形という歴史の両方が、そしてそれらがそのとき到達していた一九六八年という現在が、まさに渾然と一体になって、僕が食べた稲荷ずしの感触と味のなかにあった。

 歴史を持っているのは稲荷ずしだけではない。あらゆる食べ物が固有の歴史を持ち、その歴史のなかで体験した変化というものをたたえている。一九六八年のハワイの稲荷ずしで僕が体験したのとおなじことを、さまざまな食べ物でいつだって体験することが出来るはずだが、現実はかならずしも理屈に沿うわけではないだろう。ハワイの稲荷ずしで体験したのと同質のことを、後にも先にも、僕は他の食べ物で一度も体験していない。

 一九六八年のハワイには、まだ目に見えるかたちで、日系社会が存在していた。それから三十数年が経過したいま、僕がかつて食べたのとほぼおなじ出来ばえの稲荷ずしを、ハワイで食べることが可能かどうか。不可能ではないだろう。一世の母親から引き継いだ稲荷ずしの作りかたを、二世の母親が三世あるいはそれ以下の世代にそのまま伝えていれば、百年前の稲荷ずしをほぼそのとおりに作ることの出来る日系の女性は、けっしていなくはない。

 かつてのオカズヤのような惣菜の店で、稲荷ずしを買って食べることもまだ可能だ。日系の人が経営する小さなホテルのサラダ・バーに、稲荷ずしを見つけたのは何年前のことだったか。もちろん食べてみた。なかなか良かった。惣菜店で稲荷ずしを買うとき、「これちょうだい」に相当する地元ふうの英語のなかに、イナリズシという日本語を滑り込ませて、店員に通じるかどうか。日系の店員に、「オイナリサン?」と訊き返される一瞬のなかに、明治からの歴史がある。

(底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 二〇〇五年)

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2017年5月28日 00:00
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