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「解釈憲法」の命日となる日

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二〇〇三年十一月十九日

 一九四六年の六月、当時の吉田首相は、「憲法第九条は自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄した」と明言している。日本でいまだに続いている「解釈憲法」の歴史は、このあたりから始まった。二年後、一九四八年の一月、当時のアメリカ陸軍長官は、「日本を反共の防壁にする」と、演説のなかで言った。「解釈憲法」の完全なスタートだ、しかもアメリカに強制されるかたちでの。おなじ年の五月には海上保安庁が設置された。これにはイギリスや中国そしてソ連が反対したが、アメリカは日本に強行させた。以後、日本では戦力が増強されるいっぽうの歴史が続くこととなり、それに呼応するかたちで、第九条の解釈の幅を拡大あるいは創造し続けるという、「解釈憲法」の歴史のなかをも歩くことになった。

 一九五〇年一月、年頭の辞のなかでマッカーサーは「日本国憲法は自己防衛権を否定していない」と語った。いまこんなふうに書きながら、反共やマッカーサーといった言葉の意味は、ひょっとしたら注釈なしではもう伝わらないのではないか、と僕はふと思う。この年の七月には警察予備隊が創設され、海上保安庁は増員された。どちらもマッカーサーの指示によるものだった。警察予備隊は一九五二年の七月に保安隊と名称を変更し、これがのちの自衛隊となった。そしてその一九五二年の三月、吉田首相は参議院の予算委員会で、「自衛のための戦力は合憲である」と答弁した。わざわざ合憲と言っているところが興味深い。明らかに違憲なのだが、という意識がそこにあらわれている。

「解釈憲法」が半世紀も続いた理由はただひとつ、それが日本の国内問題にとどまったからだ。経済を至上の命題とした戦後の日本にとって、日本の外はそれがどこであれ、市場でしかなかった。製品を生産するための資材を調達する市場、そして生産した製品を販売するための市場だ。憲法や戦争さらには軍隊がらみでつきあいがあったのは、唯一アメリカだけだ。そして日本はそのアメリカが要求することを、すべて引き受けてきた。これでそのときどきの時代が成立したのだから、良き時代だったと言わなくてはならない。

 朝鮮戦争とヴェトナム戦争には、可能な範囲で日本は協力した。国外にも出た。朝鮮戦争がもたらした経済特需は、戦後から続いていた経済的そして政治的な混迷から、日本を脱出させるだけの推進力となった。湾岸戦争では資金を提供した。いま思えばこれは兆候だった。かねを出したその次には、ちょっと顔を出してくれるだけでいいから、と連れ出されることになりかねない。9・11以後の急展開のなかで、そのとおりになった。アメリカによって、外へ、さらにその外へと、日本は引き出されていく。アメリカの言うとおりにしてきたことの、ごく当然な延長線上の出来事だ。

 イラクへの自衛隊の派遣をアメリカに要請されて、日本はじつにあっけなく、その要請を受け入れた。日本の軍事戦力はセルフ・ディフェンス・フォーセズと言うけれど、じつは半世紀前からこれは軍隊ではないんですよ、というような言い訳は外に対して通用するわけがない。戦地同然の外国へ、戦後初めて、軍隊として日本の戦力が出ていく。しかもアメリカの側についている存在として。半世紀にわたって国内問題でしかなく、したがってそのつど必要とされる解釈がいかようにも可能だった「解釈憲法」も、解釈し続けてきた戦力とともに国外の戦地へと出ていく。

 装甲などないも同然の兵員輸送車にロケット弾が一発命中すれば、なかにいる十人からの兵員が、かすり傷だけで助かるということはまずあり得ない。彼らとともに「解釈憲法」がふっ飛ぶ。外圧でしか変わらない日本、といまでも言われている日本だが、外圧の発生地点である外に触れたとたんにひっくり返る日本、というものもあり得る。戦後とはなにだったか、という問いのなかにある真の日本の姿を、そのとき誰もが見ることになる。

 イラクへの自衛隊の派遣は、二〇〇三年にはおこなわれないことにきまった。イラクの状況が悪化するいっぽうであるという外側の条件によって、からくも危機をかわした。アメリカの短慮によってもたらされた、自分にはなんの責任もない、イラクという外にある泥沼の状況を、自己防衛のために徹底的に利用すべし、という貴重な教訓がここにある。

(初出・底本:『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』NHK出版 二〇〇四年)

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