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人間の人工的な性質を確認するワイルドな場所

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シエラ・クラブの本を五冊。美しい写真を見ながら、ひとりで感じたこと、考えたこと。(1)

“Earthborn”というタイトルの写真集を、僕はついさきほど見終わったところだ。見ながら、そして見終わってから、僕は考えごとをしてみた。その結果を、いまこうして、文章に書こうとしている。

 登山や探検をおこない、写真家でもあるジョン・ビーティが、みずから撮影した美しいカラー写真二百点を、七章に分けて構成した写真集だ。章が変わるたびに、その冒頭に短い文章があり、どの写真にもキャプションがつけてある。

「人間の手つかずの場所を褒めたたえる」という意味の副題がつけてあるとおり、手つかずのワイルドな場所の写真が連続している。三月のスピッツバーゲンの東側。初夏の夕方の光を受けとめている、アンタークティカ半島。アデレイド島の西側の海に浮かぶ氷山。日没一時間後のグランド・キャニオン。標高八千フィート、視界ゼロ、ブリザードの吹くグリーンランドの雪原。気候や地理的な条件が人間にとっては過酷すぎるため、いまでも手つかずのままになっている極地、奥地、僻地などの写真が、一見したところランダムな印象で、写真集のなかに配列してある。

 人間の存在など前提のなかに入っていず、したがって人間とはなんの関係もない、険しく厳しい場所が、地球上にはまだたくさんある。人間が手をつけることの出来ないそれらの場所を、都会にある暖房のきいた冬の部屋のなかで、写真集に収録された二次元のミニアチュアとして、僕は眺めていった。すごい場所だ、とてもこんなところには住めない、と思ってみたり、寒いだろうなあとか、底なしに静かだろうなあ、などと僕は思った。このような場所に、一度は立ってみたいという気持ちも、なくはないな、とも思った。

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John Beatty(1988), Earthborn: in celebration of wild places, Sierra Club Books.
amazon米国

 人の姿がいっさい登場していない写真が多いのだが、ときたま、ぽつんとひとり、画面のどこかに人がいる写真がある。撮影者のジョン・ビーティ自身、あるいは誰かほかの人だ。過酷な場所での体験を充分に積んだ、そしてそのような場所に対する畏敬の気持ちをきちんと持ち続けている人たちであるにもかかわらず、人間の手がついていない過酷な場所にひとりで立っていたりすわっていたりするだけですでに、そのような場所にその人の姿はまったく似つかわしくない。

 ただひたすらワイルドであり続けて来た過酷な場所のなかに、人間の姿はまるで似合わない。人は、そのような場所にとっての、構成要素のひとつではない。僕が見るところ、人の姿は、景色のどこにも調和しないし、同調もしない。そのような場所で、人間は生きていけない。人間のための場所は、どこにもない。ほかの場所から訪ねて来て、ほんのいっとき滞在し、過酷さのなかに美しさや崇高さを感じ、それに圧倒されつつ帰っていくのが、どうにか人になし得る最大限のことだ。

 地球およびそれを取り巻くひとつの生態環境にとって、人間はひょっとしたら余計なものだったのかもしれない、とふと思ってしまうほどに、人間の姿はワイルドな場所に似つかわしくない。ジョン・ビーティの、いまひとつ落着きのない写真集”Earthborn”を見て、僕が受けたもっとも強い印象は、以上のようなことだった。

 太陽、空気、水、そして大地などは、人間がいてもいなくても、地球のものとして現在とおなじように、あるはずだ。それらからの恩恵を当然のものとして受けとめつつ、ごく短い時間のあいだに、人間は現在のような段階にまで到達した。人間の基準で言うなら、高度に発達した文明、という段階だ。

 いまの人間たちの、そのような高度な段階を支えているのは、技術だ。そしてこれまでの技術は、そのどれもが、最終的には地球の生態環境の破壊につながるような技術だった。集積回路以後の、世界の質を根源的に変化させてしまうほどにすさまじく高度な技術発展でさえ、環境の破壊とまだ深くつながったままだ。

 地球は、もはや確実に駄目かもしれない、とたいていの人が思う段階にまで、環境の破壊は到達している。酸性雨によって破壊された森、あるいは、ロサンジェルスにおける水の需要の変化に呼応して、半死半生の状態をくりかえしている湖の写真が、”Earthborn”のなかにもある。

 人間の歴史は、自然を破壊する歴史だった。自然から大きく離れていき、人工的な様相をきわめつくす歴史だった。僕がいま眺めた写真集”Earthborn”も、そのような歴史のなかでの産物だ。だから、そのなかにとらえてある過酷な自然の光景は、どれもみな、直線的な感触を僕に感じさせる。直線というものは、自然界にはない。人間の産物だ。人工的な様相をきわめつつある人間をとおしてとらえた自然の景色だから、そのなかには、直線的な感触が常にある。

 この写真集のなかにある景色は、すべて、人間の歴史のなかで人間と対立してきた相手としての自然だ。そして、自然もここまで過酷になると、人間としては対立するよりほかに有効な対処のしかたはない。対立を中止したなら、人間は過酷さのなかでたちまち死んでしまう。

 写真集の最後のページには、大自然の夜のなかで人が焚火をしている写真がおさめてあった。火は、自然からかけ離れた人工的な存在へと人間がむかっていくための、最重要なきっかけのひとつだった。その意味で、焚火は人によく似合っている。火や道具がなかったなら、歴史など、とうてい作り得なかったほどに非自然的な存在が、人間なのだ。だから、大自然の過酷さのなかで焚火の火とむきあっている人間の姿には、火と道具の彼方にあるはずの、人工をきわめた世界への執念のようなものを、感じ取ることが出来る。

 人間はDNAの仕組みを解明した。そして月へもいって来た。極大から極小まで、その仕組みを解き明かした。スケールという尺度を解消して世界を理解する段階にまで、人間はすでに到達している。それでもなお、彼ら人間の手がついていない場所が、この地球にはいくつも残っている。

 そのような場所は、人間の普通の生活のなかへ、たやすく取りこめるような場所ではない。協調の関係すら、結びにくい。ときたま出むいていき、探索したり圧倒されたりして帰って来るのが、いまのところ人間に出来る限度だ。そのような場所は、したがって、人間が最初から持っていた人工的な性質を確認する場所として、最適だ。一冊の写真集のなかとは言え、手つかずのいくつもの場所の光景は、人に対してそのような効果を発揮する。すくなくとも僕に対しては、そうだった。

 自然からはみ出した位置から、人間はスタートした。そして、自然から急角度で離れていく歴史を、彼らは積み重ねて来た。その途中で、地球という環境を彼らは決定的に破壊しつつある。と同時に、自然の仕組みをよりよく理解するというかたちをとおして、遠まわりの果てに自然へと接近していきつつもある。自然を破壊しない技術という、人工的な世界の頂点にむけて、人間の歴史は、ようやくその方向をほんのすこしだけ変化させようとしているのではないのか。

(底本:『永遠の緑色──自然人のための本箱』岩波書店 1990年)

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2017年4月22日 00:00