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平成十一年の五つの安心

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 平成十年に日本で首相を務めている人物が、自らを「ヴォキャ貧」であると評したことは、日本にとって記念すべき出来事だ。戦後の五十数年を体験してきた日本がついに到達した、マイナス領域におけるひとつの頂点だ。

 平成の十一年め、年頭の総理記者会見でこの首相は、「私はこの内閣の課題として、五つの安心と真の豊かさの実現を、かかげたいと思います」と、語った。五つの安心とはなにか、念のため以下に引用しておこう。こういうのを見ると、もう日本は駄目だ、と僕は思う。そしてその日本は、僕の祖国なのだが。五つの安心とは、次のとおりだ。経済再生の安心。雇用の安心。環境の安心。社会保障の安心。育児と教育の安心。

 自らを「ヴォキャ貧」と定義して笑っている、しかし戦後日本の歴代の首相のなかでもっとも怖い首相の登場に、まるで正確に計測して符合させた結果のように、広辞苑という日本語の辞書の改訂版が刊行された。改訂版とは、前の版を刊行して以来、ひたすら増え続けた新しい言葉を大量に収録したもの、というほどの意味だ。

 この広辞苑の歴史は、戦後の日本における言葉の歴史だ。最初に刊行されたのは一九五五年だ。この年はなんとも言いようがないほどに象徴的な年であり、象徴的な出来事だ。なぜなら、次の年の一九五六年には、日本政府がその経済白書で、「もはや戦後ではない」と宣言したからだ。

 アメリカによって完膚なきまでに叩き伏せられた日本が、敗戦そして無条件降伏してから十年。なにもない焼け跡から復興を始めたという日本は、その十年間で復興をとげて強力な土台を作っただけではなく、それまでの日本とはまったく質の異なる、まるで別の日本になりました、という意味の宣言だった。

 いつなにがあろうとも日本はずっとおなじ日本だし、日本人はいつまでもおなじ日本人のままだ、というのが一般的な理解だとすると、それは大きく違っている。いまの日本にはいまの日本人しかいない。昔の日本は、時間の経過と時代の進展とともに、順に消えてなくなった。いまの日本がここにあるだけだ。

 戦後に限定して言うなら、「もはや戦後ではない」という宣言は、戦後の日本が第一回めの大きな変質をとげた事実を、語っている。それ以後も日本は変わり続けた。日本人という人々や彼らの作る国が、その質のもっとも深いところで、それまでとは別なものへと、何度か大きく変化した。そのつど、広辞苑は改訂された、というのが僕の意見だ。

 一九五〇年代なかばの日本は、それまでの日本とはとうていおなじとは言いがたい日本に、すでに変質していた。それ以後もますます変質をとげることは確実となったから、広辞苑という辞書に言葉がまとめられた。日本は違う日本になったし、これからはもっと変わっていくのだという自覚は、新しい辞書を一冊、編纂させた。

 最初の広辞苑は昔からあるクラシックな言葉が大部分を占めたのだが、戦後第一回めの変質をとげた日本にとっては、すでに存在していた辞書では明らかに不足だった。平成十年の五度めの改訂にいたる途中、日本にとっての大きな変質の節目ごとに、広辞苑は改訂された。変質が限度を越えるとそのつど、それまでの広辞苑は、社会からのずれを痛感しなくてはならなかった。高度成長、オイル・ショック、バブルなど、日本の質の大変化とほぼおなじ時期に、改訂はおこなわれたはずだ。

 戦後の日本が自ら作り出して体験してきた、経済復興と高度成長そしてそれ以後を、広辞苑という一冊の辞書の立場から見ると、それまではなかった新しい言葉が急激に増えていき、それらの多くが社会のなかに定着して、人々の日常語となっていくプロセスだ。

 広辞苑のような大きな辞書の第一の機能は、静止した貯蔵庫だ。急激に増えていく新しい言葉を、貯蔵庫は収録しなくてはならない。収録を決断させるのは、増えるいっぽうの新しい言葉が社会に定着したという判断、つまりそれら多くの新しい言葉で言いあらわされる実体が、社会のなかへすさまじい速度で広まり浸透した、という判断だ。

 それまでは存在しなかった新しい数多くの言葉によって、社会の質がまったく別なものへと変化していくのだが、一冊の辞書にはそこまでは追いきれない。収録するのに精いっぱいの辞書にさらに出来ないのは、社会に広まり浸透した数多くの新しい言葉の群れ、そしてそれらが言いあらわしている実体が、人の幸せにじつはなんら寄与していないという、悲しい事実の提示だ。

 一九五五年に初めて刊行された広辞苑が、それ以後、日本の質的変化の節目ごとに収録してきた大量の新しい言葉をよく点検すると、ろくでもない言葉ばかりであることがわかる。このような言葉を手に入れた自分たちは、なんと幸せなのだろうと心から思えるような言葉は、改訂のたびに加えられた新しい言葉のなかに、ひとつもない。

 これまでに刊行された広辞苑をすべて揃え、時間順にならべて観察すると、そこに戦後の日本がある、と僕は確信を持って思う。分厚く大きくなっていくいっぽうの広辞苑の姿は、そのまま戦後の日本が体験した、右肩上がりの経済による歴史の跡だ。

 今回の改訂では、一万語もの言葉が、あらたに加えられたという。自分の国の辞書に一万もの言葉を追加する決断の根拠は、なみたいていのものではないはずだと思うが、とにかく一万語が加えられた。

 朝一。裏技。駄目元。茶髪。休肝日。ぽい捨て。ぷっつん。どたキャン。とほほ。一万語のなかには、このような言葉も多い。見ても聞いても美しくはないし、自分で使ったなら楽しくないどころか、戦後の日本というろくでもなさのさらに内部へと、否応なしにからめ取られていく不快さを覚えるだけだ。

 すでに書いたとおり、辞書は言葉の貯蔵庫だ。貯蔵庫には、そこに貯えるものの数が増えるにしたがって大きくなっていかざるを得ない、という宿命がある。今回の改訂で生まれた広辞苑は、限界を越えたと思えるほどに、大きくて厚い。この姿もまた、現在の日本を端的に写している、と僕は思う。

 戦後の日本が自分のものとして獲得してきた多くの言葉は、じつはろくでもない言葉であり、それらが言いあらわす実体もまた、ろくでもないものだった。ごく限定された範囲内のきわめて少数の例外を別にすると、戦後の日本とは、ぜんたいとしては失敗だった。

 なぜ、こんなことになったのか。戦後の日本は会社でありすぎたからだ、という言いかたをしてみよう。株式会社日本と外国から言われたとおり、戦後の日本は完全な会社立国をとげた。全国に林立した企業群は、経済だけではなく、日本そのものすべてを、引き受けた。社会とは会社であり、その外にはなにもない、という国になった。政府まで会社に支えられた。

 改訂ごとに広辞苑に収録された、戦後の新しい言葉をさらによく観察すると、それらの言葉の圧倒的に多くが、会社用語であることに気づく。会社が生産や販売などの企業活動をすることから生まれてきた言葉、そして、会社と一心同体あるいは表裏一体となって生活する人たちの使う言葉だ。

 会社の活動の拡大は、人々の生活を安定させ向上させる、絶対的な善であるとされた。しかし会社は利益を追求するだけであり、真や善あるいは美といった幸福とは、なんの関係もない。むしろ会社はそれらを排除し無視し破壊していく。

 日本そのものを会社群がのみ込んだ。良くも悪くもそのなかにしか、戦後の日本は自分の日々を持たなかった。誰にとってもすべては会社だった。会社と関係しないものは無価値であり、存在しないも同然の扱いを受けた。

 会社がなぜいけなかったか。会社とは、徹底して内向きの世界だからだ。自分のところの営業品目だけが世界のすべてであるという、内向しきった場所だ。だから会社はきわめて狭量であり、じつはたいそう脆い。状況が変われば、会社はあっというまに消えてなくなる。

 戦後の日本は、冷戦を戦ったアメリカの傘のなかに、その身を置いてきた。いまもそうだ。軍事はそのアメリカを補完するものであり、基本方針はすべてアメリカにまかせてある。「な、そうだろう」とアメリカが言えば、いつだって「イエス、サー」と答えるという世界だ。このような状態で、まともな外交など持てるわけがない。そしてそのことを逆に利用して、日本は外交を徹底してさぼってきた。

 外交と軍事がなく、アメリカの傘のなかで平和な自由世界を相手に、日本は経済活動だけをおこなってきた。経済活動とは会社の仕事だから、会社の仕事が盛んにおこなわれればおこなわれるほど、内向きのエネルギーは何乗倍にも増幅されて日本国内に充満し、そのエネルギーが向かう方向、つまり内側へ、さらに内側へと、日本を導いた。

 すべてのことが国内だけのためにおこなわれ、あらゆることが国内だけで間に合って完結するという、一国平和主義と呼ばれる世界を、戦後の日本は完成させた。

 戦後の日本のすべてを支えたのは、日本人が大好きな、内向きのエネルギーとその論理だった。なぜこれが日本人は大好きなのか。内向きの世界は、建前と本音の世界という、日本人にとってもっともわかりやすくて違和感のない、具体的な世界だからだ。

 建前とは、おもて向きにただそう言っておくだけという、どこからも文句の来ない紋切り型の内容と言葉だ。そして本音は、自分たちの都合だけを徹底して遂行するための、裏ルールのことだ。このような意味での建前と本音というダブル・スタンダードによって、いまの日本はその隅々まで支配され、すべては裏ルールによって仕切られ、運営されている。

 五十数年ものあいだ、内向きの経済活動に邁進した結果、裏ルールの国という究極的な内向きの世界を、日本は作った。裏ルールを支える力は、噓と隠蔽だ。いまの日本がいかに噓と隠蔽に満ちているか、誰もが知っているという状態から、これからの日本は抜け出さなくてはいけない。

 戦後の日本は、日本を日本国内というひとつのマスへと、統制することに成功した。戦前に達成されたのとおなじ質のことが、戦後においても達成された。この達成と成功の度合いは、一般に認識されているよりもはるかに、すさまじいスケールのものだ。

 技術に立脚した経済によって、日本国内というひとつのぜんたいを達成するためには、とんでもないパワーと量の、内向きのエネルギーを必要とした。このエネルギーがどこからどのように発生したかについて考えると、これからの日本にとっての、脱出経路が見えてくるはずだ。

 自分のありかたをめぐって、自分の頭を使って本当に考え抜いたことが一度もないという種類の人々が、国民として圧倒的な多数になっている状態から、そしてそこからのみ、これだけの内向きのエネルギーは生まれてきた。

 自分はどうありたいのか。自分はどんなふうに生きたいのか。なにをしてどう生きれば自分は幸せなのか。こういったことについて真剣に考えたことは一度とてなく、経済最優先で会社がすべての会社立国という国の方針を受けとめてしたがい、それに乗ってただ流されていくという適応をしただけの人々が、戦後の日本をここまでに作りあげた。

 本来ならとめどなくマイナスであるはずのパワーがひとつに結集して、戦後から現在までの日本を作った。日本は日本国内というぜんたいでひとつとなり、日本の外については、それは世界というぜんたいでひとつだと、とらえられることになった。

 その日本がここまでになったのは、ぜんたいでひとつととらえることの可能な大量の人たちが消費する、大量の規格品の生産と販売とを、日本が最高の得意技としてきたからだ。ぜんたいでひとつである日本は、ぜんたいでひとつであるマスに向けて、ぜんたいがひとつである規格品を、大量に売った。日本がたどった論理の筋道は、このように見事に一貫していた。

 国の方針が到達した地点、つまり現在の日本は、自分がどうあればもっとも幸せなのかについて、自分の頭で真剣に考えたことが一度もない人たちにとってすら、これでいいのだろうか、これでいいはずがない、と思わざるを得ない状態だ。

 自分の頭で真剣に考える人たちにとって、自分が望んでいる幸せといまの日本のありかたとのあいだには、絶望的に大きな距離がある。そのような距離はなぜ生まれたか。人々がなにも考えずに、ぜんたいでひとつのマスであり続けたからだ。人における究極の内向きな状態は、自分ではなにも考えずにいる状態だ。そしてそのマスが、戦後の日本を作って支え、ここまで到達させた。

(初出・底本『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年)

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2017年4月21日 00:00