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移動、という行為を開始することによって、人生の全責任を彼女は自分ひとりで引き受ける(2)

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前回|

■まだ若い母親が娘をひとり連れて、自動車でアメリカのなかを長距離にわたって旅をする、という設定の小説は、ほかにもありそうな気がするのですが、いかがですか。

 僕も、じつはおなじことを思ったのです。一九五〇年代では無理かもしれませんが、一九六〇年代に入ってからなら、そういう設定の小説がきっと書かれているにちがいないと思って、僕は人に調べてもらいました。
 そうしたら、みつかったのです。これ一冊しかなかった、というわけではなく、とりあえずこれがすぐに見つかったので僕は読んでみた、というのが、アン・ロイフィ(と、僕は仮に読んでいる)の、『ロング・ディヴィジョン』という長編小説です。モナ・シンプソンの作品の長さにくらべると、短編と言っていいような分量ですけれど、一冊の本になって成立しているので、長編でしょう。一九七二年に刊行され、高い評価を得て、かなり評判になった作品です。この作品のまえに、彼女は『アップ・ザ・サンドボックス』という作品を書いていて、これも評判になりました。優秀な書き手です。

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Long Division, Anne Richardson Roiphe
1972[amazon日本|英語|Simon & Schuster,HarperCollins Distribution Services,1975]

■母親と娘の、自動車による旅ですか。

 そのとおりです。母親は、エミリー・ブリンバーグ・ジョンスンという名前で、三十五歳だったかな。そして、娘は、セイラといい、年齢は十歳です。この二人が、ニュージャージー・ターンパイクを一台の自動車で走っているところから、物語はスタートしています。二人は、メキシコへむかっているのです。メキシコへむかう目的は、母親が自分の離婚を成立させるためです。夫との離婚を成立させ、ひとり娘を連れているとはいえ完全にひとりの女性にたち返るために、エミリーはメキシコにむかっています。
 僕は、たいへんに面白く読みました。『ここではないどこかへ』にくらべると、何分の一かの分量ですから、あっと言うまに読めてしまいます。量が少ないからすぐに読めるのではなく、面白いから読めるのです。そして、僕の口ぐせである、面白いとは、この小説の主人公もまた、強いエナジーを自分の内部にたたえていて、そのエナジーは肯定的であり、前方にむかっていて、しかも大きく開かれている、ということを意味します。
 彼女の名前からすぐわかるとおり、主人公の女性はジューイッシュです。彼女がジューイッシュであることが、小説の展開に対して大きな影響を持っているわけではないのですが、彼女の性格の作りかたの背景としては、もちろん作用しています。
 ジューイッシュの女性たちは、学校の先生になるべくこの世に生まれて来た、などとよく冗談で言われています。人種がからんだ冗談のなかに登場するジューイッシュの女性たちは、多くの場合、学校の先生です。この小説の主人公も、学校の先生になる資格を持っています。彼女はニューヨークのハンター・カレッジを卒業していて、幼児教育を専攻したのです。
 学校の先生になぜなるかというと、まず食いっぱぐれがないからです。世のなかにはいつだって子供は存在しているし、子供はしかるべく教育されなければならないから学校と先生はどうしても必要であり、したがって先生をやっていれば食うには困らない、という生存の哲学みたいなものがあるのです。
 それに、学校の先生は、社会のなかでほぼ自動的に、ある程度の評価は得ますし、生活は静かに安定し、そのなかでまともな結婚をして子供を産み、育てていくという、きわめて基本的な生活をまっとうさせていくことが可能である、と彼女の母親の世代は考えるのです。
 この小説の主人公、エミリーも、このような哲学を持つ両親に育てられ、そのような意味でのジューイッシュ的な部分を強く持っています。いまは別れたかつての夫からは、「きみは、ジューイッシュの学校の先生と結婚すればよかったんだよ。先生としての仕事に熱心な、よく働く、そしてクイーンズにある二世帯用の家に、姉といっしょに住んでそこが楽園だと信じて疑わないような、そんな男性と結婚すればよかったんだ」などと言われているのです。かつての夫の、このような言葉に対して、エミリーは、「私にはそれよりもうすこし、野心のようなものがあったようだ」と答えていますけれど。

■メキシコでの離婚を成立させるためだけだったら、飛行機で飛んでしまったほうが、自動車の旅よりもはるかに簡単だと思うのですが。

 小説のなかで、娘のセイラも母親にそう言っています。しかし、この小説を成立させるためには、母親のエミリーは、ひとり娘を連れて、ニューヨークからメキシコまで、自動車による旅をしなくてはいけないのです。
 アメリカ人として、このエミリーは三代めなのです。祖父母の代にヨーロッパからアメリカに渡って来たときの、その移動の慣性がいまでも自分の身の上で続いていて、いまこうして自分が自動車でメキシコへむかっているのは、その移動の慣性のなせる業だ、などと彼女はなかば強がりのような冗談として、そしてなかばは本気で、言ったりもしています。
 こういう冗談は、しかし、僕はたいへんに大事だと思うのです。冗談にしろこういうことが言えて、しかもわずか三代まえはヨーロッパから移民として渡って来た人たちであるという確実なうしろだてがある事実は、たとえばエミリーというひとりの女性がその内部に持っているエナジーの秘密を解く鍵にもなるはずだと、僕は思います。
 ヨーロッパからアメリカへ移民して来た祖父母たちの、移動の慣性がいまでも自分の身の上で持続しているという体感は、かならずや精神に重大な影響をあたえずにはおかないと、僕は思うからです。エナジーは開かれたものになると、僕は思うのです。閉じたら、その瞬間、慣性にしろなににしろ、移動は終わるのです。移動によって、その人が持っているエナジーは無限大に開かれていく、というひとつの可能性があるのです。

■エミリーが別れた夫ですけれど、彼に対する彼女の気持ちは、どんなふうになっているのですか。

 うまく断ち切れていないようですね。しかし、彼個人に対して未練がある、という言いかたは、正しくないでしょう。誰かひとりの男性をみつけておたがいに強く愛しあい、そのふたりの関係の持続のなかに、自分の人生が一日また一日と肯定的に生まれていく、というような日々のありかたに対して、彼女はすくなくとも気持ちの半分では、まだ強くひかれているのです。いつまでも変化なしに持続していく、もの静かな強い愛に支えられた結婚生活、というものですね。そのような生活に対してエミリーは価値を認めていて、その価値のなかで自分も生きていたいと、気持ちの半分では本気で思っています。

■メキシコへ自動車でむかう旅は、エミリーにとって、そのような思いを断ち切るためのアクションでもあるのですか。

 それほどせっかちな小説ではないのです。試行錯誤に関して大きな自由が許されている社会のなかのひとりとして、要するにその旅は、思考の試行錯誤の旅なのです。旅の終わりに達成されるものは、かつての夫との離婚だけであり、ほかになにかさがすとしたら、ニューヨークから自動車でメキシコまで走りきった、という体験くらいのものです。ほかになにが達成されるわけでもないし、なにが残るわけでもなく、その後の彼女にとってなにか有力なきっかけが生まれたりするわけでもないのです。せっかちな達成、つまりちゃちな自己の絶対化をめざしているような人たちにとっては、きわめて苛々させられる小説ではないでしょうか。

■アメリカの文化ぜんたいとエミリーとの関係は、どうなのですか。しっくりといっているのでしょうか。

 アメリカというぜんたいは、おたがいに大きく異なる部分の多い、じつにさまざまな要素による混合体ですからね。そのなかのひとつの要素の、さらに小さなひとつの部分である自分は、ひとりの娘をもうけた結婚に破綻して、離婚を成立させるためにメキシコへむかっている途中です。しかし、日常からは、かなりの部分、彼女は解き放たれています。要するに思考の試行錯誤の時間のなかにいるのですから、自分の状態について彼女はいろんなことを考えます。
 たとえば、スプリングフィールドの町をかなり遠く出はずれた場所へ、エミリーはセイラを連れて、ひとつの銅像を見にわざわざ出かけていきます。開拓時代の女性の銅像です。自分たちがそこを開拓していかなければ、ほかに先住民しかいない原野が広がっているだけ、という時代のなかで、自分たちの国を自分たちの手で作っていくという、非常に大きな、そして確固たる手ごたえのあった日々のなかで体を張りとおしたひとりの女性の運命を、その銅像を見上げながら、エミリーはうらやましく思ったりします。
 いまの自分は、目的を失ってほうり出されたような状態であり、これからなにをするのかすらきまっていないし、どこでどのような日々が自分を待っているのか、どんな日々を作っていくのか、おぼろげな見当をつけることすら出来ない状態の自分の、確認ですね。それから、自分は性格的にも、そして育って来た環境的にも、抑圧する側ではなく、明らかに抑圧を受ける側のひとりである、といった認識もエミリーは持っています。

■娘のセイラとの関係は、どうなのですか。

 自分にとっての日常の現実との、唯一にして最後のつながりはこの娘である、という認識をエミリーは持っています。たいへんに健全な認識ですね。娘のセイラを育てていく責任とか、娘を出来るかぎり幸せにしてあげる責任などが、自分をこの地球に結びつけてくれているのだ、と彼女は自覚しています。この小説がスタートしてすぐのところで、彼女はそんなふうに言っています。自分の一人称で記述していく小説のなかで、彼女はそう言っています。この娘がいるからこそ、自分は、夏の終わりの風に乗ってどこへともなく飛んでいくタンポポの種のようにはならずにすんでいるのだと、彼女ははっきりと言っています。

■娘あっての自分ですか。

 そうではないです。離婚したことによってそれまでの日常から解き放たれてしまうと、日常の現実と自分との接点はこの娘だけなのだ、という感概があったりしますけれど、最終的には、彼女はひとりなのです。自分がほかの人とつながっていなければならない理由はどこにもなく、現在から過去を切り離し、自分はひとりでこの大陸のなかに生きていくのだという自覚は、たとえぐらつくことが何度あろうとも、最終的には変化なく続くのです。

■娘のセイラは、どのような存在なのですか。

 彼女はまだ十歳ですからね。それほど複雑なことを言ったりおこなったりは、しないのです。しかし、強い少女です。強靭なエナジーが、最初から開かれて存在しているのです。エナジーを閉じている状態、というものを最初から知らなければ、最初から開いているわけで、このへんが面白いところです。
 コミックスを際限なく読みたがったり、モーテルやホラルの部屋でTVの好みの番組を次々に見ていたがる、というような造形のしかたがしてあります。プールのあるモーテルに泊まって、そのプールで泳ぎたがるとか。
 人里など遠く離れた荒野のなかの、ハイウエイを走っていて、雷をともなったすさまじい雨嵐にあい、走り続けることが不可能になり、道路のわきに停止して雨嵐をやり過ごすシークエンスがあります。
 母親のエミリーは、その雨嵐のあいだずっと、いろんなことを思うのですが、娘のセイラはうしろの座席で眠ったままです。ことのほか強烈な雷鳴が轟きわたると、ほんのすこしだけ目を覚ましたセイラは、「人が寝てるのだから、TVの音を小さくしてよ」と、母親に言います。そういった造形ですね。日常の時間のなかでの、大人たちの出来事の連関が、まだうまくのみこめていない年齢、ないしは状態です。
 しかし、そのような娘に対して、母親は、ミラーを介してうしろの席にいるセイラを見ながら、自分よりもこの幼い娘のほうが、アメリカのどこへほうり出しても、はるかにすんなりと、巧みに適応していくのではないだろうか、などと思ってみたりもします。
 小説のなかでこの娘を観察していくだけでも、充分に楽しめますね。体は元気だし、疲れないし、めげないのです。なにに動じることもなく、めそめそしないですし、不平や不満も言わないのです。気持ちがうしろむきになることが絶対になく、とにかく立派なのは、愚痴を言わないことです。
 強いエナジーが、最初から開いた状態で存在しているためでしょう。エナジーが開いていれば、愚痴は言わないはずです。なにかと言えば愚痴が出てくる人は、エナジーが閉じているのでしょう。きっとそうです。
 十歳の娘としては、自動車でメキシコまでいく母親に、最後までつきあわざるを得ないのですが、モナ・シンプソンの作品の場合とおなじく、母親と娘との取り合わせは、この小説の場合も絶妙です。そして、ただ単に取り合わせが絶妙であるというだけではなく、肯定的に作用している強い開かれたエナジーどうしは、きわめて基本的な部分において、強い一本の線によって、あらかじめ結ばれている、という気がします。
 肯定的に作用しあっている開かれた強いエナジーは、人と人とを、もっとも重要な部分で、ごく当然のことのように、すっきりと結びつけるのです。自分たちはそんなふうに結ばれているのだと、当事者たちがわざわざ自覚するまでもないようなかたちで、人と人とを結びつけるのです。
 モナ・シンプソンの小説と、アン・ロイフィの小説の二冊を読んだ僕が発見したこととして、はっきりそう言っていいと思うのです。エナジーと、とりあえずひと言で言っていますけれど、ものの考えかた、気持ちのありかた、世のなかぜんたいに対する態度、価値観、人生観など、すべてをひとつにひっくるめたそのぜんたいのことを、ここではとりあえず、エナジーと呼んでおきましょう。

■ふたりの自動車による旅の、途中の出来事には、どんなことがあるのですか。

 彼女たちが出来事を引き起こすのではなく、出来事にまきこまれていくスタイルで書いてありますから、遭遇する出来事がなければ、ほんとになにも出来事はなく、ただ自動車で移動していくだけです。そして、一人称の書き手であるエミリーによる、思考の世界のなかでの試行錯誤の自由が、展開してあります。
 自分についてなにを考えようがそれは彼女の自由であり、自分をどんなふうにとらえようが、あるいはそのとらえかたをいつ取り消そうが、それも彼女の自由です。自分をこれからどうしようが、それもまた自由であるという、何事にも自由の重なった時空間が、すなわち移動の時空間なのです。
 彼女たちふたりが遭遇する出来事は、大きなものだけあげると、四つあります。
 ひとつは、小説の最初のほうに描かれている出来事で、これはペンシルヴァニアのハーシーという小さな町で起こります。このハーシーの町は、チョコレートのハーシーの町です。ハーシーの工場があり、町ぜんたいがハーシーでありチョコレートであるという、ちょっと不思議なところです。僕もいったことがありますが、とにかくぜんぶチョコレートの町なのです。
 ここをとおりかかった母親と娘は、チョコレート工場を見学します。そしてその途中で、娘のセイラは、見学通路の高いところから、溶けたチョコレートが渦を巻いている巨大な容器のなかに落ちるのです。
 小説ぜんたいに対しては、ほとんど意味を持たない出来事ですけれど、メキシコまでの旅の冒頭での出来事としては、効果的です。自分の完全な責任であるはずのひとり娘が、ほんのちょっとしたはずみに、自分にはどうすることも出来ない事態のなかに入ってしまうという、予期せぬ出来事の可能性の暗示みたいな役を果たしているのだろうと、僕は思います。
 もっとも面白い出来事は、テキサス州で起きます。ここまで来るとメキシコは近いですから、ニューヨークからずっと持っていた道路地図を、エミリーは捨ててしまいます。ここから先は、自分で道すじをさぐりながらいこう、というわけです。
 行く手にはアマリロという町があり、その町はすこし大きすぎるのでバイパスしようとして南へ下っていく途中、セトルメント・トゥマローという名の施設ないしは場所の案内標識を見て、エミリーはふと興味を引かれるのです。
 トゥマローとは、明日のことです。明日、という言葉をわざわざ使うからには、もう明日はない人たちのためのセトルメントだということは、アメリカ国内の文脈ではぴんとくるはずなのですけれど、エミリーは気づかず、そこへいってみます。

■老人のコミュニティーですか。

 そうです。自動車で引っぱって来たトレーラー・ハウスが、何軒も、あのテキサス州の荒野のまっただなかに、置いてあるのです。施設と言えばそれだけであり、それだけで何人もの老人たちが毎日を送って生活する、ひとつの場所になっているのです。
 近親者たちとはすでに次々に死に別れ、子供からもすでに何年にもわたってなんの便りもないという、ほんとに自分だけとり残されて孤立した、人生の最終段階の人たちばかりが、そこにかたまって住んでいます。
 はじめは夫婦で一軒のトレーラー・ハウスでそこにやって来て住みついたとして、何年かあとにはどちらかが死に、そのさらに何年かあとには、残されたひとりも死にます。残ったトレーラー・ハウスは、そこに住んでいる人たちが共同して使う場所になるのです。すでにそのように使用されているトレーラー・ハウスとくっつけて壁を取り払い、遊びのための部屋にしたり、共同で作業をしたりするためのスペースとして使用するのです。
 そのセトルメント・トゥマローは、荒野のまんなかではあっても、すっかり定着していて、確実にひとつのコミュニティーなのです。若い人はひとりもいず、誰もがきわめつきの老人です。そこへ、エミリーとセイラの母娘は、ある日、迷いこむのです。
 この部分は圧巻でした。すくなくともこの部分だけは、基本的には恐怖小説なのです。ほんのちょっと立ち寄り、紅茶とドーナツをごちそうになり、一時間か二時間で帰っていくつもりだったのですが、老人たちはそうはさせてくれません。
 なにしろ、十歳の少女を目のあたりに見るのは、どの老人にとっても、十五年ぶり、二十年ぶりという、めったにない、うれしい出来事なのです。彼女をじっと見つめ、肌の滑らかさや髪の艶やかさなどに対してひとつひとつ感嘆しているだけで、彼らにとってはたいへんな充実感があることなのです。
 母親のエミリーですら、彼らにとっては、ヴィーナスの到来のようです。三十五歳なんて、信じられないほどに若いのです。そして、じつはエミリーは、姿のいい、きれいな人なのです。成熟した若い女性というものもまた、セトルメント・トゥマローの住人たちにとっては、すっかり忘れていた世界の再来です。
 訪ねて来たエミリーとセイラのふたりを、親切に優しく丁寧にもてなす老人たちは、もてなすと同時に、エミリーの自動車に細工をほどこし、帰っていけなくしてしまいます。自動車に乗って帰っていこうとすると、自動車のエンジンはかからず、フードを開いてみると、エミリーひとりでは直ちには修理できないような妨害がしてあります。見渡すかぎりなにもない荒野のまっただなかです。歩いて帰るなんて、とうてい出来ないことです。恐怖にかられ、なんとか逃げようとはかるエミリーの気持ちの動きを、老人たちは素早く的確に見抜いては、じつに巧みな連携によって、エミリーとセイラをそこにとどまらざるを得ない状態にしてしまいます。
 ほかに自動車はなく、脱出の手段はどこにもないのです。老人たちは巧みにエミリーを監視します。隙はありません。いつまでもここにゆっくりしていらしたらいいじゃありませんか、などと言われて、エミリーはすくみあがります。
 娘のセイラは、しかし、その場所が気にいっているのです。老人たちに親切にしてもらい、かなり長くここに滞在してもいい、という気持ちになっていて、すっかり住人たちになじんでしまいます。なぜそんなに逃げたがるのか、セイラには母親の気持ちがわからないのです。
 空間の移動などもはや思いもよらず、すでに目のまえに自分の持ち時間の終わりがはっきりと見えている人たちばかりの集団のなかで、それまで動いていた小説の世界は、時間すらばったりと停止してしまいます。これは、怖いですよ。そこに住んでいる人たちの誰にとっても、空間や時間はすでに終わっていて、あとは生命の終わりという、誰がどうすることも出来ない瞬間を、いっしょに住みながら待っているのです。
 そこは、動きがいっさい停止した世界なのです。明日はない世界です。生きていることに、ほとんど意味のない世界なのです。時間や空間がふんだんにあることの証拠である思考の試行錯誤を思うままに重ねつつ、ニューヨークから自動車でメキシコへむかっていたエミリーとセイラの動きは、時間も空間もすでに終わっている世界の虜となり、そのなかに閉じこめられてしまいます。
 ここにだって動く自動車が一台くらいはあるはずだ、とエミリーはやがて思います。動く自動車をつきとめるのですが、キーがありません。老人たちの部屋に入ってキーを捜していると、すぐにみつかってしまいます。罰として裸になってみせろ、などと言われたり、夜、ベッドで眠っていると、周囲に人の気配が濃密にあるのを感じて、エミリーは飛び起きます。暗い寝室のなかに、セトルメントの住人である老人たちがたくさんいて、眠っている自分をじっと見ていたのです。若い女性が眠っている様子を観察しては、彼らはおたがいに感嘆しあっていたのです。

■脱出は出来ないのですか。

 どうすることも出来ず、エミリーとセイラは、一週間ほどそこにいてしまうことになります。
 そのセトルメントでは、下水やトイレットの排水がうまくいっていず、そのためセトルメントのぜんたいにわたって、いつも生ごみや便所の匂いが漂っているのです。修理を頼んでもなかなか来てくれない状態が続いていたのですが、やっと修理の人たちが来ます。
 その人たちのピックアップ・トラックを、エミリーは必死の機転をじつにうまく働かせてなかば奪い、セイラとともにきわどいところで脱出します。荷物もなにも、すべてそこに置いたままです。そのトラックで、とりあえず小さな町の町はずれのようなところまでいき、自動車修理のガレージに頼んで、セトルメントに置いたままの自分たちの自動車を取りにいってもらいます。
 やがて自動車は戻って来て、トラックは下水工事の人たちに返却し、ひとまずそこで落着です。自分たちの荷物は、戻って来た自動車のなかに入っていました。セトルメントの人たちが、そうしてくれたのです。セトルメント・トゥマローに閉じこめられるこのくだりは、怖くてしかもつらいですけれど、素晴らしく面白い部分でもありました。
 セトルメントの住人のひとりに、自分が人生のなかでついに手に入れることのなかった物品のスクラップ・ブック、というものを作っている老人がいるのです。あれも欲しい、これも欲しい、と思いながらいつのまにか人生は終わってしまい、あれもこれも手に入れないままになってしまったひとりの老人が、欲しかったものを雑誌から切り抜いてはスクラップ・ブックに貼りこみ、大事にしているのです。それを、エミリーは、見せてもらいます。

■そのスクラップ・ブックのなかには、どんなものがあるのですか。

 ごくあっさりと書いてあるのですが、泣けて来ますよ。キャデラック。冷凍冷蔵庫。ハワイへの旅行。銀の食器類。スエードの靴。自分が住んでいる町へは巡回公演が来なかったため、見ることの出来なかった芝居。それから、女の赤ちゃんの写真も、雑誌から切り抜いて貼ってあるのです。その人には息子ばかり三人いて、ひとりでいいから娘が欲しかったのだそうです。雑誌から切り抜いたその赤ちゃんの写真には、名前までついているのです。とっくに死に別れた妻の名を、彼はその赤ちゃんにつけているのですね。
 セトルメントを脱出したふたりは、自動車修理ガレージの人が自分たちの自動車をとり戻して来てくれるあいだ、荒野のまんなかの、町とも言えないような町の片隅で、じっと待っています。待ちながら、ふたりはゲームをします。私は赤、あなたはグリーン、と色をそれぞれにきめて、その色の自動車が十台、先にとおりかかったほうが勝ち、というゲームです。
 そこからさらに百五十マイル、ふたりはニューメキシコに入り、クローヴィスという町を出はずれたところにあるモーテルに宿泊します。クローヴィスにも、僕はいったことがあります。僕の知っている場所がよく出てくるので、読んでいて妙な気持ちです。頭に浮かんで来る現実の光景と、小説のなかでおなじ場所を背景にして進行する物語とが、重なりあうのです。
 そのモーテルを出て、さらに旅を続けていると、ふたりが乗った自動車のタイアが、パンクします。エミリーは、パンクしたタイアを交換することが出来ないのです。
 ニューメキシコの荒野のまんなかをつらぬいている道路のかたわらで、自動車が走って来るのをふたりは待ちます。やがて停まってくれた男性がタイアを交換していると、そこへジプシーの集団が馬車でとおりかかります。ジプシー、という言葉を聴いてとっさにイメージのなかに浮かんでくるのとそっくりなジプシーの集団が、馬車をつらねて、ヨーロッパとなんら変わることなく、ニューメキシコの荒野をやって来るのです。実際に、そのようなジプシーが存在するのです。そのジプシーの集団に、エミリーは、セイラをさらわれてしまいます。力ずくで強奪されたのではなく、いくつかのつまらない出来事が重なったあげくの、ふとした成りゆきで、セイラはジプシーに連れ去られてしまいます。
 突然、不条理に、思いがけなく、エミリーはその場で、ひとりにされた自分を発見します。こういうところも、面白いですね。産み落としてからこれまで、ずっといっしょだった娘が、自分の目のまえから連れ去られ、そのことに対して自分はまったく無力なのです。成りゆきをただ見ているほかにないという状況のなかで、自分ひとりにされてしまうことの抽象的な面白さというか、自分というもののありかたの、思ってもみなかったもうひとつの可能性を具体的に見せてもらえる面白さを、エミリーは体験します。たいへんに見事な切りかえしでした。
 パンクしたタイアの交換はまだ終わっていず、次にとおりかかって停まってくれたドリップ式コーヒー・メーカーのセールスマンがタイアを交換してくれ、エミリーは自動車で走りはじめます。娘がジプシーに連れ去られてから、タイアの交換を終わった自動車で再び走りはじめるまでに、何時間も経過しているのです。何時間待っても、自動車は一台もとおりかからないような場所なのです。
 モーテルに投宿したエミリーは、警察に電話をかけます。ジプシーと娘の件を説明し、警察はすぐにモーテルへ来てくれます。そのときはすでに夜であり、二機のへリコプターで捜索がはじまります。夜のハイウエイの上空を二機のへリコプターが飛んでいき、ライトで地上を照らし、ジプシーの集団を捜すのです。二機のうちの一機に、エミリーも乗り込みます。野営しているジプシーの集団はすぐにみつかり、娘のセイラは母親のもとに戻ります。
 ここですでにこの小説はおしまいから二ページほどのところであり、このあとふたりはメキシコに到着し、そこでストーリーは終わっています。

■これが一九七二年の作品ですか。いまでも充分に通用しますね。

 ペーパーバックになったのが一九七四年で、当時の値段で一ドル二十九セントです。メキシコまでの旅の途中に、大きな出来事が四つあると、さきほど僕は言いましたけれど、もうひとつは、宗教にいれあげているヒッピーたちの、野外での集会にふたりが参加することです。ジプシーの集団にいち早く自分の興味を介してなじんでしまうセイラは、ここでも、どこかぎくしゃくしている母親にくらべて、はるかにすんなりと、ヒッピ―たちとその宗教活動に、なじんでしまうのです。そういうことを書くために作者が考えたエピソードなのだろうと、僕は思います。ただし、出来事としては明らかにいまの出来事ではなく、あの頃の出来事であり、それをいま読むと、あの頃からの時間の経過は確かに感じます。

■ものすごく面白い小説が、数多く眠っているのでしょうね。

 そうです。読んでいるあいだも面白いですけれど、読んだあと、たとえばこうして話をしながらいろんなふうに考えるための材料としても、興味のつきない面白さを見せてくれます。
 モナ・シンプソンの作品の主人公、アデル・オーガスト、そしてこのアン・ロイフィの作品の、エミリー・ブリンバーグ・ジョンスンの、とりあえずふたりのたいへんに魅力的な女性に、小説のなかで出会えました。
 彼女たちふたりに共通しているのは、もともと自分の内部に持っているエナジーが、強い肯定的なものであり、しかもそれが閉じたものではなく、開かれたものであるということです。そして、どちらの女性も、自由の手に入れかたや、それの使いかたを本能的に知っていて、実際に自由を手に入れるし、自分のためにそれを使っていくのです。
 基本は、何度も言いますけれど、出し惜しみを絶対にしない、ということですね。彼女たちの文化のなかでは、出し惜しみというものがないのだ、と言ってしまってもいいほどに、いつもエナジーは全開です。出し惜しみなどをすこしでも試みたなら、たちどころに大きく転落するのです。
 自分がじつはなにほどでもないことを彼女たちはよく知っていますし、それだからこそ、そのようななにほどでもない自分を絶対化するという醜いことを、どうまちがっても、彼女たちはやらないのです。これは、出し惜しみをしないことと、直接につながることだと、僕は思います。出し惜しみをすると、人間はせこくなり、せこくなると、せっかく手に入れたものはすこしでも失いたくないという気持ちに支配されますから、自己の絶対化をことあるごとに図るようになるのです。
 モナ・シンプソンの作品も、そしてアン・ロイフィの作品も、書きかたとしては、パーソナル・ナラティヴ、つまり個人的な記述であり、日本ならたちまち私小説になって袋小路に入るところですけれど、そうはならず、普遍にむけて大きく自らを開きつつ、接近していきます。

■こういう女性たちに、会えるものなら会いたいですね。

 作品のなかの登場人物は、架空の人物たちですけれど、その架空の人たちを作った作者は、現実に存在するのです。そして、これだけ魅力的な人物を小説のなかに作ることの出来る女性たちは、現実に魅力的な人たちであるにちがいないと、僕は思うのです。だから、作者を訪ねて会うと、面白いはずだと僕は思いはじめています。
 何人かの女性の作家たちの小説を読み、魅力的な主人公のリストを作り、アメリカを横断するようなかたちで旅をしながら、作者たちにひとりずつ会っていくのです。ドーナツの店でコーヒーを飲み、ドーナツを食べながら、その作者がかって小説のなかに作った魅力的な主人公について、ともに語るのです。楽しいと思いますよ。

完[全2回]

(『彼女と語るために僕が選んだ7つの小説』1989年、エッセイ・コレクション『本を読む人』1995年所収)

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1989年 1995年 『彼女と語るために僕が選んだ7つの小説』 アメリカ エッセイ・コレクション 女性 彼女 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 移動
2017年3月9日 05:30
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