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移動、という行為を開始することによって、人生の全責任を彼女は自分ひとりで引き受ける(1)

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 ホテルへ戻り、コーヒー・ショップのいちばん奥の、しかも片隅の席で話を続けようか、と僕が言った。ホテルへ戻りかけたとき、彼女は百貨店に目をとめた。このなかになにかいい場所がありそうだ、と直感した彼女についていくと、四階の婦人服売場の奥に、静かなよく出来たコーヒー・ショップがあった。そこで、夕方まで、僕は彼女を相手に話を続けた。

■モナ・シンプソンの『ここではないどこかへ』(邦訳は早川書房)という小説は、ぜひとも話題にしていただきたいと、思っていました。

 たいへんに面白く読みました。素晴らしい小説です。あなたは、読んだのですか。

■ひろい読みは、しました。「ベル・エア・ホテル」という章が、とても好きです。

 あの部分はじつに良く出来ています。あの部分だけ読んでおく、という読みかたも成立するでしょうね。ぜんたいは、相当に長いですから。

■『ここではないどこかへ』というタイトルは、象徴的な、いいタイトルですね。

 見たとたん、読みたくなりますよね。ひとつの世界を丸ごと捨てて、どこか遠くへ移動していき、移動したその先で、それまでとはまったくちがった世界を手に入れていく話なのだなと、見当がつきますから、そういう話ならぜひ読みたい、と思ってしまうのです。タイトルに使われている言葉はわずかに三語ですけれど、作り出すイメージは、きわめて広いですよ。

■この小説をまず最初のとっかかりとして、アメリカにおける移動の意味について、考えてみたいのです。ごく簡単に説明してしまうと、どんな内容の小説なのですか。

 片田舎で生まれて育ったアデル・オーガストというひとりの女性がいて、彼女はいわゆる人格円満ではなく、たいへんにいびつなのですが、そのいびつさゆえに、相当に魅力的でもあり、姿や顔かたちにもかなり恵まれています。その彼女が、自分の内部に可能性として存在する世界や能力とうまく呼応する、等身大の世界をいかに獲得していくか、そのプロセスの物語です。
 田舎町に住んでいるときの彼女は、なんの根拠も一定の方向もなしに、とりとめなくふくらんだだけのイメージの世界しか持っていず、したがって日常生活も、とりとめなくとり散らかった状態であり、自分の世界をどこにもみつけてはいないのです。
 その彼女が、ある日、田舎町での生活のすべてを捨て、ひとり娘のアンを連れて、カリフォルニアへいってしまいます。

■田舎町から出ていく人の目的地は、いまでもカリフォルニアなのですか。

 カリフォルニアと、もうひとつ、フロリダがあります。カリフォルニアは、アメリカ的なものの延長上にあり、その究極としてイメージされていますし、フロリダは、いまではアメリカの内部の第三世界ですね。アメリカ的なものとは対立する世界、あるいは、アメリカ的なものをなんらかのかたちでおびやかす世界としての、フロリダです。いわゆる南国フロリダではなく、キューバまで九十マイルしかないという意味でのフロリダです。
 なんの当ても根拠も、いっさいなにもなしに、ある日、彼女はカリフォルニアにむかってしまうのです。娘とふたりで乗っている、身のまわりのものすべてを積みこんだリンカン・コンティネンタルは、彼女たちが住んでいた田舎町のある邸宅のまえで、ある日のこと、見かけて気にいったものなのです。カリフォルニアへいくなら、このくらいの自動車でいかないことには、なによりもまず様にならないというわけで、別れたも同然の夫のクレディット・カードで支払いをし、その車を彼女は手に入れたのです。
 カリフォルニアには夢がある、その夢を追いかけるだけでも、こうしてカリフォルニアへむかう価値はあるではないか、といった程度の、きわめて軽く、同時に、きわめて強い衝動に蹴り飛ばされるようにして、三十代なかばの、なかなか美人の母親とそのひとり娘は、カリフォルニアへむかうのです。

■この小説の大部分は、ひとり娘のアンの視点による一人称で書かれていますね。

 そうです。十二、三歳の娘の一人称によって、彼女自身も描かれていくと同時に、母親のアデルも描かれていきます。いまおっしゃったとおり、娘の一人称によって書かれた部分は、この小説の半分以上を占めています。この一人称が、小説のぜんたいに対して、とてもいい力を発揮しているのです。
 田舎町からカリフォルニアにむけて、自分をいったん根こそぎにして移動させていくというアクションを起こしているのは、母親のアデルなのです。そして娘のアンは、アデルという女性の娘として生まれたという境遇を、自分で望み選んだのではない、という立場ゆえに、母親のアクションに自らを同調させなくてはいけないのです。
 母親が起こしているアクションを、すべて娘のアンが受けとめ、彼女が受けとめたものとしての母親のアクションを、娘が一人称で語っていきます。母親の行動がどんなにとりとめなくても、どんなに当てのないものであっても、あるいは、どれほど自己中心的なものであろうとも、アンはそれらをすべていったんは受けとめざるを得ないのです。
 彼女がいったん受けとめることによって、母親のアクションなり気持ちの動きなりが、じつにうまく小説として増幅されていきます。母親の一人称で書いたら、平板で退屈なものになりかねないですし、母親を主役とした三人称で書いたなら、平凡をとおりこして陳腐なものにすらなりかねないのです。
 十二、三歳の、母親と行動や生活を共にせざるを得ないひとり娘の視点をとおして、母親の行動や気持ちを描いていくというこの方法は、この小説を成功させた構造上の力となっています。

■娘の一人称は、非常に冷静な視点でなければなりませんね。

 そうです。そして、事実、はじめから終わりまで、アンはずっと冷静です。不安定な母親にいつもつきあっていなければならない、ただひとりだけの子供として、相当な試練の時間をアンは体験するのですけれど、冷静なのです。本能的にものごとの中道をさぐり当てる力がそなわっているような、聡明な、気持ちのアップ・アンド・ダウンがマイナスのかたちではたいへん少ない、すぐれたナレーターです。そうでなければ、こんな物語のナレートなど、不可能でしょう。

■母親のアデルの一人称による語りは、最後の章として、ほんのすこし出てくるだけなのですね。

 そうです。そして、アンにとっての祖母、つまりアデルの母親の一人称による語りが、おなじく一度、これはかなりはじめの部分で出てきます。それから、アデルの姉キャロルの一人称による部分が、三度あります。このような構造は、興味深いですね。
 たとえば、娘のアンの一人称による語りが、小説のはじまりの部分からしばらく続いたあと、アンにとっての祖母であるリリアンの一人称による語りにきりかわると、フラッシュ・バックして同時にレンズも替えた、というような効果が生まれて来ます。
 田舎町で日常の日々を送っているときも、そしてカリフォルニアへむかっているときも、アンは母親のアデルから至近距離のところにいつもいます。アンが受けとめつつ語っていく母親像は、カメラがもっとも遠く引いた場合でも全身像であり、それ以外の場合は、バスト・ショットであったり顔のアップであったりと、たいへんに近い距離からとらえたアデルです。
 ところが、語り手がアデルの母親に代わると、レンズが広角になったような面白さが出てきます。目のまえに描き出される光景に大きな広がりと奥行きが出て、アデルはその光景のなかにあるさまざまな要素のうちのひとつになるのです。それに、リリアンはアデルの母親ですから、時間的にフラッシュ・バックし、アデルがまだごく幼かった頃の話からはじまったりしますので、読者がすでにとらえているアデルという女性像のパースペクティヴがいきなり変化して、これもたいへんに効果的です。しかも、そのことによってアデルがなにほどか中和されるのではなく、アデルをアデルたらしめていることがらが、より鮮明になっていくのです。アデルが、もっとはっきりしてくるのです。
 ぜんたいは九つの部分に分かれていて、語り手の人称の順番に見ていくと、アン、リリアン、アン、キャロル、アン、キャロル、アン、キャロル、アデルと、こうなっています。アンの一人称による至近距離からのアデルも魅力的なのですが、ちがった視点からのアデルを見たいな、と思いはじめると、やがて語り手が変化し、それまでとは異なった広がりのなかでのアデルを見ていくことが出来る、という構造です。
 面白く読んだ小説を、こんなふうにその構造から考えていくと、いろんな発見があって、さらに面白くなりますよ。

■何年くらいにわたる物語なのですか。

 アデルとアンが田舎町に住んでいるところからはじまり、ふたりはカリフォルニアへ出ていき、そこでの生活が続き、最後の部分ではアンは東部の大学へいっていて、アデルは老人ホームのような施設の所有者となってそれを経営し、うまくいって経済的にも精神的にも安定した五十代の女性となっている、という物語ですから、アンとアデルの身の上に流れた時間がもっとも短く、しかしそれでも十二、三年は経過しているはずです。
 最後の部分は非常にはしょってあり、要点だけをあらすじふうに書いた、というような書きかたになっています。しかし、これはこれでいいのだろうと、僕は思います。

■アデル・オーガストは、どんな女性なのですか。

 彼女を説明することは、この小説のぜんたいを説明することですので、くわしく説明するのは大変なのですよ。

■簡単でいいです。

 ウイスコンシン州のべイ・シティという場所に生まれてそこで育ったアデルは、容姿に恵まれた、才能もある、魅力的な女性なのです。姉のキャロルは大学へいっていないのですが、アデルは大学へいっていて、キャロルから見るなら、それだけでもすでにアデルは、ずいぶんちがった運命のなかにあるのです。
 魅力も才能もあるのですけれど、アデルはとにかく気持ちが集中しないのです。常に独特なとり散らかりかたをした女性であり、はっきりした目的も方向も、なにもないのです。
 小さな田舎町では、目的も方向も持ちようがないと言えばそのとおりだろうし、こんな場所には自分の気持ちを集中させるに足るものはなにひとつない、とアデルが思うなら、それはそれでたいへんに正しいのです。
 自分は、自分が大いに満足することの出来るなにものかを手に入れるための正統な権利を所有してはいるけれど、そのなにものかがなにであるのか、この田舎町にいてはわかりっこない、というような現実を自分の問題としてかかえたひとりの三十代なかばの女性、それがアデルです。
 娘のアンは、最初の結婚によって手に入れたのです。相手の夫はエジプト人で、彼はソング・ライターになりたい、という夢を持つ男性でした。ソング・ライターが駄目ならハリウッドで俳優になり、オマー・シャリフの亜流くらいにはなれるだろうという、具体的なよりどころなどなにひとつ持たない男性だったのです。
 彼は仕事を捜しに西へむかって以来、音信不通です。いまどこでなにをしているのか、アデルも知りません。娘のアンは、この夫の黒い髪や肌の色、あるいは顔立ちなどを引いていて、そのことは、カリフォルニアへいってから具体的に役に立ちます。
 母親のアデルは、娘のアンがまだ子供のうちに、ハリウッドで子役スターにしてみせたい、という雲をつかむような願望を持っています。アンは、カリフォルニアでTVの連続ドラマに出演する機会を得て、ごく一時期ですけれど、スターになるのです。彼女は、アメリカン・インディアンの血を引く少女の役をもらいます。
 アデルの二度めの夫は、アイス・スケートのインストラクターです。かつてはホリデイ・オン・アイスのようなスケート一座に加わり、スター的な存在だったのですが、いまでは田舎町のスケート・リンクに小さなオフィスを持ち、人々にスケーティングを教えています。
 はじめの夫といい、二度めの夫といい、スクエアな視点から見るなら、どん底から一歩だけ手前にかろうじて存在している、吹けば飛ぶような、まったく頼りのない、どうしようもない人たちなのです。作者のモナ・シンプソンは、よく考え抜いたうえでこのような人物を設定したのでしょうけれど、こういった男性たちと結婚までしてかかわったというところに、アデルという女性のありかたをも、読者ははっきりと見ることが出来るのです。結婚は、二度とも、アデルにとってはほんの小さな一点にしかすぎないのです。

■ひとつのことに自分の気持ちを集中させ、その集中をうまく維持していくことの出来ないタイプの女性ですか。

 昔、そういうタイプの女性がよくいましたけれど、アデルはそういったタイプでもないですね。よし、これをやるぞ、と思ったなら、そのことに気持ちは充分に集中するのですけれど、波がありすぎるというか、第三者が当てに出来るような一定した安定のようなものは、皆無なのです。
 たとえば、娘のアンがまだ子供の頃、クリスマスの劇で使うドレスをアデルが作ります。じつに見事な出来ばえのドレスを作りあげ、何年もあとになっても、その町の人たちの語り草なのですが、跡始末をアデルはまったくしないし、ドレスを作った現場のガレージは、思う存分、散らかし放題のまま、そんなことはすっかり忘れて早くもほかのことに気をとられているという、ある意味ではたいへんに魅力的な人として、作者はアデルを造形しています。
 着こなしが、彼女はうまいのです。前後のみさかいなしに服を買うのが好きですし、なにかのパーティに出るとか、あるいは人に会うとか、そういったときに自分をいかに着こなしによってこしらえあげるかということに、独特なエナジーを注ぎこむ人、とでも言えばいいでしょうか。
 しかし、娘のアンといっしょにパーティへいく約束のある日、アデルは髪を洗い化粧をし、服を選んで着ていくのですが、二時間も三時間もかかり、とうてい外出の時間には間に合わず、最後は支離滅裂になってしまい、Tシャツ一枚でベッドにもぐりこむ、という方向にもエナジーはむかってしまいます。自分自身の収拾を、ひとつひとつうまくつけていくことが苦手な人なのですね。エナジーがありすぎるのでしょう。
 ひとり娘を連れ、田舎町からなんの当てもなしにカリフォルニアへむかってしまう主人公として、じつに魅力的です。

■小さな田舎町に生まれてずっとそこに住んでいると、自分自身に関して、はじめからある程度の収拾をつけてしまわないことには、安定した生活は出来ないと私は思いますけれど。

 そうだと思います。自分の世界を、ある程度まで閉じるのですね。アデルが持っているエナジーは、ベイ・シティという小さな町が持っている可能性のスケールを、最初から大きくはみ出しています。

■外へ飛び出していかざるを得ない運命ですか。

 運命と言うよりも、そういうタイプのエナジーなのでしょう。常にどこか外にむけて、オープン・サーキットになっている性質のエナジー、と言ってもいいです。
 アデルの姉のキャロルは、第二次大戦で軍隊に志願し、陸軍の婦人部隊の一員として、ヨーロッパの戦場へいった経験があります。田舎町の内部とはまるで異なった世界ですね。そこで得がたい体験をし、ひとりの男性と知り合い、その男性と結婚までします。
 しかし、その結婚について彼女は、田舎町の両親にも誰にも知らせません。軍隊での生活を終わって帰ってくるとき、夫の男性をともなって、キャロルは田舎町へ戻っていきます。
 ところがその夫は、田舎町へ近づいていく汽車のなかで、急性肺炎を起こして死んでしまいます。田舎町にはキャロルひとりが降り立ち、死んだ夫のことについて、彼女は誰にもいっさい語らず、自分だけの秘密にしていきます。そして、その田舎町で昔から知っている男性と結婚し、家庭を持ちます。
 こういう体験、あるいはその体験を支えているエナジーは、閉ざされたエナジーでしょうか。くるっとひとまわりして完結し、そこで世界は閉じてしまうのです。あのとき汽車のなかで夫が死ななかったら、いまごろ自分はどんなことになっていただろうかとか、夫は死んだのではなく、いまでもどこかにいるのではないか、などとキャロルは、田舎町の日常生活のなかで、いろんなふうに空想するのです。
 こういった、アクションのともなわない空想は、すればするほど、その人の世界を閉じてしまいます。キャロルは、クローズド・サーキットのエナジーの人なのです。それが彼女の運命なのだ、と言ってしまうとそれっきりですが、田舎町にとどまり続けるクローズド・サーキットの人として、キャロルが自分の一人称で語る部分は、ここだけ読んでも一編の短編小説です。「べル・エア・ホテル」の章もいいですけれど、このキャロルの章も秀逸でした。クローズド・サーキットの世界が、ものの見事にひとつ、ここにあるのです。そして、それはつまらない世界なのかと言うと、けっしてそんなことはなく、クローズドではあるけれど、充分に興味深い世界なのです。

■妹のアデルは、オープン・サーキットの人なのですね。

 クローズド・サーキットの世界のなかでは、自分を作っていくことがまったく出来ない人、と言えばいいでしょうか。姉のキャロルとは年齢がかなり離れていて、したがって育った時代背景が大きくちがっていたりします。そのちがいゆえに、大学へいけたとか、いけなかったとか、あるいは、時代の精神のようなものがその人の倫理規範に対して深いところで思わぬ影響をあたえているとか、いろいろあるのですが、キャロルとアデルは姉妹でありながら、そしておなじ田舎町に生まれておなじ両親のもとに育ちながら、最初からまったくちがったタイプの女性なのです。
 小さな田舎町ですから、誰もが誰をも知っていて、そこは明らかにひとつのコミュニティなのですけれど、そこにいる人たちのひとりひとりのあいだには、大いに差があるのです。さまざまなちがいがあるのです。ひとりひとり、まるで異なった人たちが、ひとつの小さな町のなかに住んでいます。彼ら全員をひとまとめにしてしまうような、強制力を持った不文律のようなものは、どこにもないのです。大前提として、全員が、最初から多元的なのです。
 だから、たとえばクローズド・サーキットの人生を送る人は、ひとりひとりが異なったクローズド・サーキットであり、彼らのあいだには、たとえばそれぞれがもたれあって混然一体、というような状態はあり得ません。ひとりひとりが、きわめて個性的に、クローズド・サーキットなのです。オープン・サーキットの場合も、同様です。

■だからこそ、語り手を代えて、その人ごとに一人称で書いていくという書きかたが、ぜんたいに対して効果を持つのですね。

 きっと、そうです。アンの一人称によって読者が知るアデルに、アデルの母親の一人称によって知ることの出来るアデルが重なります。母親はアデルに対して、こうなって欲しいなどという願いはこれっぽっちも持っていませんから、母親の一人称によってまずその母親が描き出され、描き出された母親の世界のなかのひとりとして、アデルが、ほかのどの人ともおなじように、くっきりと独立してアデルなのです。したがって、すでにアンの一人称をとおして読者が知らされているアデルが、重層してさらに鮮明になってきます。
 キャロルの一人称による語りのなかに登場するアデルについても、おなじことが言えます。妹のアデルが自分とおなじようであって欲しい、などとはキャロルは思っていませんし、自分がアデルとおなじようになりたい、とも思ってはいないのです。最初からふたりは大きくちがっていて、そのちがいはふたりの成長過程のなかにそのまま存在し、時間の経過とともにちがいはさらに大きくなっていきます。

■アデルの母親、リリアンによる一人称の語りは、興味がありますね。

 語り手のなかでは、彼女が最年長です。ですから、ずっと以前から現在までについて、彼女は語ることが出来ます。アデルやキャロルとは時間の軸がまるでちがい、しかも描き出される世界は、焦点の深い広角レンズで、きっちりと克明にとらえたような感触を持っています。
 そしてその世界のなかに登場してくる人たちは、どの人もみな、それぞれに大きくちがっています。すべての物語の発端は、リリアンの一人称による語りのなかにあります。
 誰もがそれぞれに大きくちがっていて、したがってそのちがいを発端にして、大人になってからの運命にも大きな開きが生まれてくるのは、当然すぎるほど当然の大前提なのです。あまりにも当然すぎるから、たとえばみんながおなじような運命のなかにあってよかったね、といった考えかたは、どこにもありません。

■田舎町から出ていった人と、そこにとどまった人とのあいだに、反感の感情はないのですか。

 ありますよ。

■彼女は出ていった人、そして私はとどまった人、というような。

 もちろん、あります。

■そのような反感は、どうなるのですか。

 どうにもなりません。彼女は出ていった、そして私は残った、というような思いをたとえばキャロルが持つなら、その思いをキャロルは自分で受けとめるほかなく、自分以外の誰も、肩がわりはしてくれないのです。
 反感というものは、自分と他とをなんとかおなじようにしたい、という願望の裏がえしでしょう。みんなおなじである、という前提はどこにもありませんから、反感はたとえあったとしても、なんらかの力は持たないのです。ひとりの人の心の片隅に沈潜して、そのままずっとそこにあるだけです。

■ハードカヴァーで四百ページを超えるこの小説を読み進むにしたがって、どんどん鮮明になってくるのは、アデル・オーガストというひとりの女性ですか。

 彼女が、主役です。主役である彼女を鮮明にしていくためには、ほかの人もくっきりさせる必要があり、ほかの人がくっきりすると、アデルはそのことによってさらにはっきりしていく、というしかけです。

■アデルの二度にわたる結婚は、田舎町での出来事でしたね。

 そうです。さっきも言ったとおり、このふたりの男性たちはどちらも、なんの足しにも当てにもならないような人であり、そのような人がアデルと組み合わされて、田舎町で安定した日常生活を営んでいけるはずがないのです。
 はじめの夫とのあいだには、アデルは娘のアンをもうけます。二度めの夫からは、カリフォルニアへいくための自動車、リンカン・コンティネンタル・マーク・スリーを得るのです。
 カリフォルニアへいってからも、このリンカンは、ふたりにとって、特に母親のアデルにとって、気持ちの上で重要な役を果たします。夕食にレストランできちんとした食事をするのもおぼつかないような経済状態のなかでも、リンカンであちこち走りまわったあげく、結局はアイスクリームだけで夕食を終わらせてしまっても、気持ちの上ではおさまりがついたりしてしまうのです。

■二度の結婚生活の破綻は、カリフォルニアへむかうための大きなきっかけなのですか。

 カリフォルニアへいけば、もっと金持のハンサムな男性が私を見つけて愛してくれて、自分はいい状態になれるだろう、という程度の、まるで雲をつかむような夢みたいなことを、アデルは言ったり思ったりします。しかし、二度の結婚の破綻は、直接には、カリフォルニアいきの動機にはなっていません。そんなことがあろうとなかろうと、彼女はカリフォルニアへむかうのです。

■むかうための準備は、するのですか。

 カリフォルニアへいこう、という話を娘を相手に何度かくりかえすだけで、準備らしい準備はなにもしません。リンカンを買うくらいのことです。そして、ある日、ひょいと、ふたりは田舎町をあとにし、カリフォルニアへとむかいます。カリフォルニアでの仕事をあらかじめみつけておくとか、住む部屋を確保しておくとか、そんな準備はいっさいないのです。
 すさまじいエナジーをアデルは持っているのでしょうけれど、楽天的というか、自分たちの社会のシステムを頭から信じているというか、あるいは、どこへいってもそこでたちどころに自分たちの生活を営むことが当人にも可能だし、移って来た人を受け入れるカリフォルニアにも、そのくらいの余裕ならまだ充分にあるというか、社会のなかに組み立てのルースな部分があり、母と娘はそのなかへなんの抵抗も感じることなく、ある日、入っていくのです。
 田舎町から持って来たものは、自動車に積めるだけのものです。服および身のまわりのものを、ほんのすこし。それだけですね。そしてカリフォルニアであらたに生活をスタートさせるといっても、最初はホテル暮らしです。おかねが底をついてくると、こんどはアパートメントの小さな部屋です。部屋はせまく家具は調っていず、とてもアデルの夢をかなえるような場所でも状況でもないのですが、彼女は元気です。
 べッドを買いこみ、せまいながらも部屋をきれいに調えようと努力してみたりもするのですが、アデルのエナジーは四方八方へ飛び散ったままどこにも集中していないような状態ですから、なかなかまとまりはつきません。ほんのちょっとしたきまぐれで部屋を別のところに移り、そこへはべッドを持っていけないから、買ったばかりのべッドを捨てていくとか、いわゆる安定した日常というようなものは、アデルの身のまわりにはないのです。
 働いてはいないし、持って来たおかねは少ないし、クレディット・カードや小切手にも限度がありますから、カリフォルニアへ移ったとは言え、ホームレスの一歩手前のような状態です。それでもアデルは、店のウインドーで見て気にいった服をクレディットでぱっと買ってしまうし、気のきいたレストランで夕食もしたい、などと思うのです。そしてレストランへいくと、支払いを考慮して、たいへんな空腹をかかえているにもかかわらず、サラダだけ注文してダイエットちゅうの金持を装ったり、自分の小切手を受けとってくれる店がどんどん少なくなっていくなかで食い逃げ同然のこともおこない、とにかく生活とは言いがたいような日々を、彼女たちはカリフォルニアで重ねていきます。

■アンは、どうしているのですか。

 アンは学校に通います。新しい友だちが何人か出来たりもするのですが、アパートメントの部屋へ帰ると、エナジーの四散しほうだいの母親とふたりだけです。母親の相手をしなくてはいけないのです。アデルとしては、アンというまだ頼りない年齢の娘を守り育てているつもりであり、そのことのために大きな犠牲を常にはらっている、などとも思っているのですが、娘のアンにしてみれば、自分はいつまでたっても安定しない母親の相手役です。
 どんなふうにアンがアデルの相手役であるかと言うと、アンは、アデルのなかにわきあがってくるおよそありとあらゆる感情を受けとめる人なのです。アデルにとって、至近距離にいつもいて、なにを言ってもいい相手は、娘のアンだけです。ですからアンは、アデルのすべての受け止め手にならざるを得ないし、そのことをとおして、アンは成長していきます。
 怒り、苛立ち、悲しみ、寂しさ、うれしさ、空元気、夢、想像、嫌悪、憎悪、愛、高揚、低迷など、とにかく、アデルが心のなかに持つありとあらゆる感情を、アンは受け止めていきます。
 アデルのさまざまな感情のありかたや、安定のなさは、そのまま、アデルの状態のすべてをあらわしてもいます。エナジーはひとつに統一されることがなく、力は充分にありながらも、いろんな方向に彼女のエナジーはとりとめなく散ってばかりいて、まとまりはつかないのです。したがって、そのつど、雑多な感情にアデルはつき動かされ、アンはそれを見守りながらどれもみな、受け止めていかなくてはいけません。

■アンは、このような母親を相手に、独特な成長のしかたをするのですね。

 成長と言うべきか、老成と言うべきか、とにかくたいへんな目に遭うのですけれど、聡明なアンはそれを無事にくぐり抜けていきます。非行に走ることもないし、ノイローゼに陥ることもなく、自分に対する自分自身による評価を下げることもなく、くぐり抜けていきます。
 この小説の最後の部分では、アンは東部の大学にかよう学生になっていて、自分自身に関してきっちりと統一のとれた、安定のある、巧みに制御されたエナジーを静かに自分の内部にたたえた、いい女性になっています。肯定的な意味での、保守の中道をいくような、そんな女性に成長しています。僕の考えかたによれば、母親のアデルが持続し続けた開かれた肯定的なエナジーを、娘のアンが受け継いでいき、アン自身のエナジーと一体になった上で、統一のとれたひとつの力たり得ているのです。
 母親のアデルは、自分の強くて肯定的な開かれたエナジーを、田舎町での日々、そしてカリフォルニアでの日々をとおして、アンに注ぎこんでいったのです。もちろん、アデルとしては、自分が刻々とそういうことをおこなっているという認識は、まるでないのですけれど。
 強い肯定的なエナジーを持ったアデルというひとりの女性が、一定の時間の経過のなかで、どんなふうにそのエナジーに統一とまとまりをつけていくか、というストーリーであると同時に、そのエナジーを娘にも分け与え、引き継がせ、娘のなかでそれを娘自身に増幅させ、娘の生きかたの土台にしていくという、そんな小説でもあるのです。

■アデルは、カリフォルニアで男性をみつけて、結婚するのですか。

 カリフォルニアへいけばいい男性がみつかり、その人が私たちを幸せにしてくれるはずだ、などとアデルはいつも言っていて、カリフォルニアへ来てからも言い続け、実際に何人かの男性たちと知り合い、関係を持ちます。しかし、男性をみつけて獲得し、その男性との関係のなかで自分の方向を統一させていく、といった進みかたを、アデルの持っているエナジーは、結局はしないのです。彼女がそういう女性ではないのだということは、途中まで読み進むとはっきりとわかります。
 関係を持つ何人かの男性たちは、いちおうは社会的にかなりの位置にいるのですけれど、きわめて陳腐な枠のなかで生きている人たちであり、そのつまらない小さな平凡な枠の内部に、アデルのエナジーを閉じこめることはとうてい不可能なのだ、というふうに考えると面白いのだと、僕は思っています。
 そのようなつまらない枠の内部に入ってしまうと、どの男性にとっても、アデルは単なるいきずりの浮気相手でしかないのです。彼女は、つまらない状態にいつまでもとどまっていられるような女性ではないのです。
 小説ぜんたいをとおして、男性たちは、印象が薄いですね。アデルやアンにくらべると、彼らはずっと遠景にいると言うか、ストーリーの展開にとってもアデルやアンの生きかたにとっても、男性はほとんど作用力を持っていないのです。作者がそう考えて、そうしたのだと、僕は思います。

■アンと自分との生活を、アデルはひとりで支えるのですか。

 そうです。まずはじめは、アデルは先生になります。高等学校の先生です。しかしそれも安定はせず、持続もしません。レストランのウエイトレス、そして邸宅のなかにひと部屋あたえられてそこに住みこむメイドのようなことをする日々が来たりもします。
 そして、老人のための、病院的な養護施設で働きはじめ、そこで安定して能力を発揮し、最後にはその施設ぜんたいの所有者になります。施設のありかたをさらに高め、そのことによって最終的には利益も上がってきて、中年のアデルは社会的にも個人的にも、たいへんに安定する、という展開です。最後のほうになると、あら筋をかいつまんで述べていく、といった書きかたになっていますが、とにかくそんな展開です。

■アデル・オーガストは、たいへんに魅力的な女性ですね。

 いまのアメリカの小説のなかで出会える主人公の女性として、彼女は最高に魅力的ですよ。もしこんな女性が現実に存在するなら、たとえばスーパー・マーケットの通路でカートを押しながらすれちがい、ほんのちょっと微笑しあうだけでもいいから、会ってみたいですね。

■これだけの女性なら、カリフォルニアでなくとも成功すると思うのですが。

 アデルのなかに混沌として渦巻いている強い大きなエナジーに対して、まずひとつ決定的な方向をあたえる重要なきっかけは、カリフォルニアへいくのだという熱い思いと決意、そして実際にそこへいってしまうアクションなのですから、カリフォルニアへいくということ、そしてそこで日々を送っていくことは、アデルにとって重要なのです。いわゆるカリフォルニア・ストーリーではないと僕は思いますけれど、アデルはカリフォルニアで自己を実現させるのです。田舎町に居続けたら、彼女のエナジーはいつまでたっても、作用すべき対象をみつけ出すことは出来ないはずです。

■エナジーの量もさることながら、質のありかたも興味深いですね。

 まとまりがつかず、方向をみつけていないあいだは、アデルのエナジーは四散しています。ふときまぐれを起こすと、そのきまぐれの方向にむけて、彼女はたいへんなエナジーを発揮します。出し惜しみしないのです。出し惜しみなど、この世界には存在しないことであるかのように、アデルは常にエナジーを発散させています。彼女の魅力の根源は、ここでしょう。エナジーの出し惜しみを知らないこと。これにつきますね。

■アデルのそういったエナジーのありかたは、どこから来るものなのでしょうか。

 あっさりと結論を言ってしまうと、すべてのスタート地点は自由というものなのです。アデルには、自分で手に入れた自由があるのです。そしてその自由を、自分のためにどう使えばいいか、心の奥底では、はっきりと知っているのです。エナジー、つまりクリエイティヴな力を作り出してくれるのは、自由というものだけです。人が楽天的であるとき、自由はもっとも有効に作用します。

■アデルとアンのふたりが田舎町を出てカリフォルニアへむかったのは、ここにはなにもなくてカリフォルニアにはたくさんあるはずだから、あるところへいこう、ということだけではないですし、場所を変えて心機一転をはかる、ということだけでもないですね。

 もともと自由は誰にでもあるのですが、アデルの場合に即して言うなら、娘を連れて一台の自動車に乗り、カリフォルニアにむけて出発したその瞬間に、彼女は自由を手に入れるのです。自分だけの自由を、自分だけのものとして、はっきりと、手のなかに持つのです。彼女の時間や空間は、ほぼ完全に自由な時間や空間となります。そのなかで、なにをどうしようが、彼女だけの自由なのです。ですから、カリフォルニアにむけて移動することはどうしても必要であり、目的地はカリフォルニアでなくてはいけないのでしょうね。

■人は毎日なにかを食べなくてはいけないとか、どこかに住まなくてはいけないとか、そういった限定があるほかは、なにをどうしようがその人ひとりの自由と責任である、という状態は怖くありませんか。

 自由の使いかたを知らなければ、怖いかもしれませんね。エナジーに不足があったり、エナジーを出し惜しみしたりするなら、自由は怖いでしょう。田舎町の日常のなかで、じっとなにかを待っていたほうがはるかに楽です。

■アデルという女性のディテールの造形は、どんなふうに感じましたか。

 目に浮かんでくるように、あるいは、いつかどこかでこの女性に会ったことがあるのではないか、と思ってしまうほどにくっきりとした、そして個性的な造形がしてあります。僕にとってもっとも面白かったのは、どこかでいつのまにか身につけてしまったような、ちょっとした癖のようなものの描写でした。
 たとえば、彼女はアイスクリームに目がなくて、夕食をアイスクリームだけですませてしまうことが、何度もあるのです。夜遅くにアイスクリームが食べたくなると、アンを乗せてコンティネンタルでアパートメントを出ていき、店までいき、アンに買ってこさせます。そして、ふたりで夜の町を当てもなく走りながら、アイスクリームを食べるのです。
 アパートメントの地下の駐車場にコンティネンタルを入れるとき、アデルは、コンクリートの壁にかならずボディの側面をこするのです。こういうディテールも、面白いですね。アデルのアデルたるゆえんの、どこか深いところのなにごとかとしっかり結びついている、彼女の行動の癖ないしは偏りなのでしょう。
 部屋のなかでなにかをはじめるとき、アデルは手を叩く癖があるのです。これからしようとしているそのことにむけて、自分で自分にはずみをつけているような、ちょっとした行為です。アンになにかさせるときにも、アデルはおなじように手を叩きます。学校の先生をやっていた人に特有の癖だ、とアンは言っています。これも、アデルという人の様子が目に浮かんでくるような工夫だし、アデルにとってじつにふさわしいのです。
 もうひとつ、これはおそらく最高に面白い彼女の癖だと思いますが、毎年クリスマスになると、アデルは田舎町の両親その他、親しい人たちに電話をかけ、誰それにはセーターをクリスマス・プレゼントとして送った、そして誰それにはなにを送ったと、実際には送ってない架空のプレゼントについて、彼女は伝えるのです。しかも、何年にもわたって、毎年、おなじことをくりかえすのです。
 プレゼントはまだ届かないよ、と次の年の夏頃になって両親に電話で言われると、アデルは郵便制度の不備や欠陥について文句を言います。途中でなくなったのだろうとか、どこかで迷っていて、いまにきっと届くでしょうとか、そんな言い逃れをするのです。
 実際にはなにひとつ送っていないのだということは、田舎の人たちにもよくわかっています。このことに関して、アデルはあるとき、田舎の人から強く責められ、ののしられます。しかし彼女は、この癖を直しません。田舎町、そしてそこにいまも住んでいる人たちに対する、アデルの根本的な態度を示す手段として、興味深い工夫でした。
 カリフォルニアへ移った当初のアデルは、人にプレゼントを買うためのおかねにも不自由するのですが、なにか送ろうと思えば送れないことはないし、人に物をあげるのが嫌だというけちな性格でもないのです。そして、とっくに嘘だとばれているのに、毎年、おなじ嘘をアデルはくりかえします。

■最後は、どんなふうに終わるのですか。

 これ以上はあり得ないような、きわめて純度の高い正解で終わっていました。その正解は、最後のワン・センテンスに、見事に結晶化しています。
 自分の開かれた強いエナジーを、ひとつの方向に集中させることによって自分を作っていき、それと同時に、アデルはそのエナジーを娘にも伝えていきます。アンはうまく成長し、アデルも自己を実現したとき、アデルが自分というひとつの存在をどうとらえるのか、そのことの正解が、最後のワン・センテンスに、クライマックスとして結晶しています。

 cover_anywhere_but_here_first cover_anywhere_but_here 表紙_ここではないどこかへ
Anywhere but Here,Mona Simpson
1986[amazon日本|英語|kindle(Knopf/Vintage,2011)]

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『彼女と語るために僕が選んだ7つの小説』新潮社 1989年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

今日のリンク|MONA SIMPSON公式サイト|スティーブ・ジョブスの妹でもあります。

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スティーブ・ジョブズの妹モナ・シンプソンの追悼演説

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1989年 1995年 『彼女と語るために僕が選んだ7つの小説』 エッセイ・コレクション 女性 彼女 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 移動
2017年3月8日 05:45
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