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移民の子の旅 ホノルル、一八六八年

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 夜明けと共にワイアナエとコオラウの山なみの頂きに雨雲がとまりはじめた。空が白んでいくと、雨が来た。大粒の重い雨だった。草ぶきの屋根を叩き、板張りの小屋の壁を横なぐりにし、樹の葉にひっきりなしに当たっては、はじけた。たくさんの樹にしげっている無数の葉に、おなじように無数の雨滴が当たった。泥道は、たちまちぬかるみになった。それよりもさきに、ふと、寒くなった。空から地面めがけて、冷えた雨滴がいっせいに通過する。空気は冷却されるのだ。カマニやパパイアの林をこえ、椰子の樹の下をかいくぐって吹いてくる風は、雨雲の冷たさを持っていた。

 雨は、夜が明けきるまで、重く降りつづいた。朝のうちはずっと雨かと誰もが思ったのだが、早い時間にやんだ。やむときは、思いきりがよかった。さっとふりきったように、あるとき、雨滴がおしまいになり、そのすぐあと、あたりの空気から冷たさが消えた。

 雨雲が消えると青い空があり、朝の陽が明るくきらめいていた。まだ雨に濡れている樹の葉が、きらきらと光った。黄金色に、銀色に、風に動かされて輝いた。陽はまだ低く、葉に対して斜めに当たっていた。

 陽がすこし高くなると、そのときには、樹の葉はもう乾いていた。空は、まっ青だった。吹いてくる風の香りが、一変していた。透明にきらめく強い日射しのなかをとおってくる空気には、かんばしい陽の香りがあった。

 雨の降る夜明けの風は、冷たく体を撫でて家のなかを吹きぬけ、外のピンクシャワーの林のなかへ消えていった。だが、空が青くなり、陽が照りはじめた早朝の空気は、吹いてきて体をつつみこみ、そこにとどまる。かすかな熱気が、全身で感じられる。太陽の光は、かぐわしい香りを持っている。そのかぐわしさが、顔をつつむ。

 雨に叩かれた泥道は、ぬかっているはずだった。だが、教会へ出かけていく時間がくるよりもずっとさきに、雨水は土中に吸いこまれ、ぬかるみや水たまりは、どこにもなかった。火山灰質の土は、水をよく吸いこむのだ。

 ヌウアヌの、幅が四十フィートある道路を、まっすぐダウンタウンにむかって降りていく。土地が平らなところでは、樹が大きくしかも葉がよくしげっているので、見とおしがきかない。雨期のあいだ雨がよく降ったから、どの樹にも葉が多い。ピンクシャワーは、花の色が葉にかくれがちだ。

 ヌウアヌの大通りを、まっすぐに町にむかう。この大通りは、幅が四十フィートある。泥道だが、でこぼこはすくなく、平坦だ。道の右側は、一段だけ高くなり、歩道のようになっている。そのふちには、草が生えている。

 道の両側に、緑の大木がずっとむこう、町の入口まで、つらなっている。幅のせまい板をたてにならべてつなぎあわせた、白いペイントの塗られた塀がつづいている。右にかしいだり、左にかしいだりしている。

 陽が、まぶしい。鮮明に、なんのくもりもなく青い空から陽が射してくる。道の両側から、ところどころ、ひさしのように道路のうえに枝をのばしている樹がある。赤味をおびた濃い紫色の土をした泥道に、葉のしげった枝が、くっきりと影を落としている。静かだ。なんの物音も聞こえない。道路から大きな樹を何本もあいだに置いてひっこんで建っている板張りの家から、子供の声がかすかに聞こえてくる。

 むこうに、荷をつんだロバを三頭ひき、馬でいく人のうしろ姿が見える。ロバの背に、ふりわけにして乗せてあるのは、麻の袋に入れたタロいもだ。ポイをつくる人のところへおろしにいくのだろうか、日曜日に。

 樹のなかに、民家が点在している。心地の良い貿易風と、きらめいて降りそそいでくる陽の光がなかったら、さびしいところだ。陽は、高くなるにつれて、次第に熱くなっていく。道路が、もうすっかりかわいている。風の強い日には、赤茶けた土煙りとなって舞いあがり、道路をふさいで突進していく。

 ヌウアヌ・アヴェニューと直角に交差しているべレタニア・ストリートに出た。ヌウアヌの東側には、住居がまばらに建っている。西側の、マウカ(山寄り)からマカイ(海寄り)にこえた、南側に、小さな商店がならんでいる。物売りの小さな店、ものを食べさせる小屋、草ぶきのハワイ人たちの家などが、ならんでいる。

 ヌウアヌ・アヴェニューとべレタニア・アヴェニューとの交差点にむかうまで、ヌウアヌの西側には、ブリキ屋の店、中国人のお茶屋、消防署、またお茶屋などがならんでいて、角は、個人の住居だ。東側の角は、コマーシャル・ホテル。そのむこうは、ハオレ(白人)の住居だ。

 べレタニア・ストリートを渡る。西側の角には、生地屋がある。ここからホノルル湾にむかってまっすぐに歩いていくと、直角に交わるホテル・ストリートまで、交差点はない。

 風に潮の香りが、はっきりと感じられる。と同時に、いろんな食べ物のにおいがしてくるし、豚のにおいや、道路に沿ってこまかくぎっしりとならんでいる板張りの平屋建てや草ぶきの小屋が発散する、ダウンタウンの生活のにおいのいっさいが、体をとりかこみはじめる。

 ホテル・ストリートとの交差点まで、ヌウアヌの西側にならんでいるのは、服屋、コーヒー・ショップ、物売りの小さな店、住居、酒屋、八百屋、服屋、酒屋、大工の店、靴屋、ホリスター・アンド・ハイランドという屋号の葉巻きやソーダそれに煙草を売る店、住居、ワシントン・マーケット、ホノルル蒸気ビスケット製造所、酒屋、J・デイヴィス・アンド・カンパニーという服および生地屋、靴屋、そして、ホテル・ストリートと交差する角は、ピコという名の船主の家だ。

 ホテル・ストリートを渡ってさらにいくと、ガンシというレストラン、生地屋、生地屋と靴屋、靴屋、レストラン、酒を飲ませる飲食店、“キング・ストリートから山の手へ三軒あがる”と広告を出しているブリキ屋、製パン店および八百屋、そして、キング・ストリートとの交差点の角は、生地屋だ。

 キング・ストリートをこえる。港は、もうすぐそこだ。渡ってすぐの角には、ガラスや陶器の食器などを売るT・モスマン・アンド・サンズ、町の役所へ入っていく入口、靴屋、そして、西へマリン・ストリートに折れこむ角は、服と生地の店だ。

 マリン・ストリートをこえるとこんどはすぐに東へ、マーチャント・ストリートが直角につながっている。マリン・ストリートとの角には、M・C・キャンべル・アンド・カンパニーが建っている。酒類を輸入する会社だ。それから、ハワイ人の船会社、そして、政府(アメリカ)の保存倉庫。

 ここで、ヌウアヌ・アヴェニューは終りだ。クイーン・ストリートが港に沿っており、その通りへ出る。ヌウアヌからクイーン・ストリートに出てきてむかい側に見えるのは、帆船の帆を縫う建物、港湾作業を監督するキャプテン・トーマス・ロングという男の家、コマーシャル・マーケットなどだ。

 そのさきが、港だ。港の沖に出てホノルルのほうを見たら、町の背後に重い量感をたたえてすわっている山のかさなりあいに、町そのものは、ほんのわずかなものにしか見えないはずだ。

 頂上ちかくに白い雲を厚くとめた山なみがあり濃い緑色にくすんでいる。その山裾のずっと手前に樹がかさなりあって林のように見え、林の海側に、あるいは林のなかに、白塗りの板張りの建物がのぞいて見える。

 教会の尖塔が林のうえからつくねんと顔を出し、椰子の樹が二、三本、ひょろ高くのびている。椰子の葉が、風になびいている。簡素な岩壁には、帆を降ろした帆船が何隻か、とまっている。ひところにくらべると、捕鯨船の数がすくない。港からヌウアヌ・アヴェニューを、マウカにむかってこんどは東側をのぼっていく。

 クイーン・ストリートとの角は、オールド・コーナー・レストランという店だ。酒も飲めるし、ビリヤード・テーブルもある。それから、ブリキ屋。その次が、紳士服飾品と生地を売る店。マーチャント・ストリートを渡る角を、この店は占めている。マグネンズ、という店なのだ。

 マーチャント・ストリートをこえて、角がロイアル・ホテル。石造りの中国のものを売る店。その次も、中国のものを売る店だ。キング・ストリートと交差する角は、ミセス・ジョンスンの、シガー・アンド・トバコ・ストアだ。

 キング・ストリートをこえ、角にあるのは、生地屋だ。その次もまた、生地屋。その次の店でも、服と生地とを売っている。また生地屋がある。そして、青果商。ホテル・ストリートとぶつかるこちら側の角は、酒屋のエンパイア・ハウスだ。

 ホテル・ストリートをこえると、船会社と生地屋の同居している店がある。生地屋、八百屋、製パン所、特許売薬店、靴屋、住居、法務長官のオフィス。ここで、チャプレン・ストリートを渡る。チャプレンは、ヌウアヌ・アヴェニューにT字交差している。服屋、エマ太后の住居、とつづいて、ペレニア・ストリートとの交差点に出る。

 一八六八年というと、日本では、慶応が明治に改元され、一世一元の制が定められた年だ。九月八日に、明治にかわっている。その、明治元年のホノルルの、ヌウアヌ・アヴェニューの西側を、住居の散在するあたりから町へ降りてきて港までいき、そこからこんどは東側をべレタニア・ストリートまでひきかえしてみると、ざっと以上のようになる。

 はじめてそこを歩く人の目を持って再現できないだろうかと思ったが、百七年昔のホノルルは、そう簡単には再現されてこない。ヌウアヌに当時どのような店があったかに関する資料は『一世紀前のホノルル ダウンタウンの横顔』という記録によっている。ビショップ博物館で飽かずながめた、当時のヌウアヌその他のストリートのスナップ写真は、陰気な感じの、古びたさびしいモノクロームだった。

 百年前のホノルルを目の前に見るには、どうすればいいのだろう。

 方法が、まったくないわけではない。たとえば、タヒチのパペーテでいいから、裏通りといわずどこと言わず、歩きまわってみる。すると、百年前のダウンタウン・ホノルルの、ヌウアヌ・アヴェニューの光景とほぼかさなりあうのではないかと思える情景を、いくつも見ることができる。

 ヌウアヌにどんな店がならんでいたかを列挙していて、気がついた。生地屋が多いということだ。パペーテの裏通りにも、生地屋や服屋が多かった。住みついている中国人のせいだろう。当時のダウンタウンのヌウアヌは、中国人が主たる勢力であり影響力であったし、パペーテでも中国人が落としている影はたいへんに濃く、面白い。

 パペーテの生地屋は、静かな、ひなびた感じをたたえていた。板張りの二階建ての四角な建物で、小さいショーウインドーがあり、そのとなりに、入口がぽかっとあいている。なかは、外からうかがうと、薄暗く見える。入口が、ほの暗くいつもあいていて、なかに人の顔がぼうっと見えたりする。

 なかに入ると、はなやかな生地がたくさんあり、買い求めるとなると、非常にていねいに要領よく、静かでおだやかなやりとりのうちに、思いどおりの買いものができていくのだ。店のなかに入ると、空気がすこし冷えている。独特のにおいがこもっている。そして、人は意外なほど静かに、効率よく動くのだ。こんなふうな、現在のパペーテの生地屋から、一八六八年のホノルルの中国人経営の生地屋を想像する作業は、不可能ではないように思える。

 こういった作業を、いろんな部分でおこない、最終的にそれをひとつにまとめればいいのだ。風の吹きぐあいは、昔とそれほど変化していないはずだ。ハワイ島の田舎町で、あるいはマウイ島ラハイナの海岸通りで、陽に照らされつつ、さまざまな風に実際に吹かれてくればいいわけだし、いろんな時間の日射しを体験すれば、ハワイ古文書保管局におさめられている古ぼけたモノクロームの写真が現代に生きかえる。

 一八六〇年代なかばに、ホテル・ストリートをこえたすぐのあたりで山の手にむかって撮影されたヌウアヌ・アヴェニューの写真をいまぼくはながめている。お昼まえの時間だ。頭上の太陽はわずかに東にずれていて、東側の建物の影が泥道にくっきりと写っている。西側の建物の、歩道のうえに張り出したひさしが、歩道を濃い影のなかにひたしている。ひさしを支えている支柱の立っている歩道のふちの部分が、陽をうけて白く輝いている。

 歩道は路面よりも高くなっている。土を盛り、ふちの部分を、岩でかためてある。海のちかくからとってきた岩であることが、こんな写真からでもわかる。

 影になった正午ちかくの歩道を歩く人が写っているのだが、ぼやけていてよくわからない。遠くには、馬に乗った人らしいものが認められる。

 西側の建物の、歩道のうえに張り出している四角いひさしの下が、黒い影になって、塗りつぶされている。この影の手前とそのむこう側は、白くまぶしく、陽が照っている。

 強く明るい日射しのなかを歩いてきて、ひさしの下の影に入る。暑さが、ふっとやわらぎ、涼しささえ覚える。建物のなかから、その建物に固有のにおいが、ただよってくる。店の前に、人がすわりこみ、じっとしていたりする。ショーウインドーのなかが、のんびりと間のびしていて、永遠の昼寝をしているようだ。ひさしの下の影のなかをとおりすぎると、また、白く輝く陽のなかにでる。熱気がもどってきて、体をつつみこむ。

 なんということはない、ごくあたりまえのこんなふうな感覚がぼくは好きだという肉体的な気質を頼りにして、いろんな時間のヌウアヌ・アヴェニューを、アップ・アンド・ダウン、アップ・アンド・ダウン、いったい何度、歩いただろう。

 いまながめている一八六〇年代なかばのヌウアヌの写真について言うなら、すくなくともひさしの下の影とその前後の白い日射しに関して、ぼくは自信を持っている。日かげのなかを歩いている白いシャツの男が写真の片隅に見える。たとえばこの男が、ほんとうになにげなく感じていた日かげと日射しとを、ぼくはすでに自分の肉体のなかに封じこめている。

 古いモノクロームの写真が、色彩を持ち、息づきはじめる。人々がどのような生活をしていたか、町ぜんたいがどんな経済状態だったのか、政治はどうなっていたのか、というようなことがわかってくると、古い写真のなかに静止しているかつての人々が、生彩を持って動きはじめる。

 「当時のホノルルはじつにさびしき町で、土人のほかに少数の白人が住居せしぐらいで、いまのキング街やホテル街には、ここかしこに白人の商店があり、郵便局はべセル街のいまの支局のあるところで、裁判所はいまのアメリカン・ファクタースの裏通りにあり、当時煉瓦造りの家屋はイー・オー・ホールがただ一軒であったという(原ダイモン・ホール建物前々身)。そのほか、ヌウアヌ街の西側に多少の支那人店があったが、みんな板ぶきの粗末な家であったという。現在のクイーン病院の一帯は昼なお暗き大樹がしげった密林であり、人の交通もまれなので市街ぜんたいに道路も凸凹はなはだしく、降雨のときは通行ができぬ有様であって、当時二階建は大建物であったという。魚市場は、現在の日布時事社の裏手の旧鉄工所のところにあり、布時政庁はフォート街にあったと伝えられている。市中には馬車もなく、もちろん電車のあろうはずなく、わずかに一町ごとにガラス点灯があり、そのなかに石油ランプを点火していたくらいで、夜の暗きことは言うまでもなく、今日に比し雲泥の差があり、比較にならなかったと伝えられている」

 木原隆吉編著『布時日本人史』に書かれている、一八六八年頃のホノルルの描写だ。引用文中、現在とか今日とかあるのは、この本が刊行された昭和十年(一九三五年)での視点のことだ。ついでに書いておくと、この本は、「米領布哇ホノルル市べレタニア街一三〇 森重書籍店」から発行された。

 こういう描写は、あまり面白いとは言えない。古いモノクロの写真を見た瞬間に思い描いてしまう、どちらかといえば陰気で、ものさびしい感じだけしか、とらえられていないからだ。一八六八年のホノルルを一九三五年のそれと比較して、「比較にならなかった」などと書いても、どうにもならない。もっとも、この描写は、一八六八年つまり明治元年に日本からはじめて移民してきた一五三名の日本人たちが知っていた横浜や東京のにぎわいと比較させる意味での描写だから、その点では参考にならない。

 一行一五三名は、六月二十日にホノルル港に上陸したという。確実に百年あとの五月のある日に、ホノルル港のかつての通称チャイナ桟橋のあった近くに立ち、タンタラスやパリの山のほうをぼくはながめていた。

 まっ青な空に風が吹きわたり、明るい陽が強く射し、山はくすんだ緑色でどっしりと重く、褐色の地肌が出ているところもある。百年前にも風はこんなふうに吹いただろうか、陽の輝きはこんなだったろうかと考えながら山の雲を見ていたぼくは、陽に焼けているアスファルト舗装の道路や自動車の排気ガスのにおいをかいでいた。

 そんなにおいになんの抵抗も覚えない都会暮らしのぼくは、吹く風の異質さを全身でたしかめていた。幅と厚みと重みを持って、委細容赦なく堂々と、当然のことのように、これ以外ではありえないのだぞとぼくに言いつつ、力強く吹くのだった。明治元年にここへ上陸した一五三名も、たしかにこの風をうけとめたのだ。まったくおなじ風だった、と断言してもかまわないとぼくは考える。大海原をこえて吹く貿易風に、百年や二百年の時間の差など、無意味に等しいのだから。

 彼らが見た一八六八年のホノルルは、『ハワイ日本人移民史』のなかでは、次のように描写されている。

「街の中心には、レンガ造りの商会が一、二軒あり、その他は木造の洋風二階建てや、粗末な支那人の板ぶきの小店などが狭い道路の両側にならび、店頭には横文字を書いたガラス張りの石油軒灯などが吊してあった。ハウエインの政庁というのも、粗末な古い建物で、このほかには、郵便局、鍛治屋、魚市場などが海岸近くにならんでいるのが目をひいた。町なかのところどころに樹木がしげり、町はずれは密林つづきになっているところが多かった。たまに、タロの田や支那人の水田があって、川には家鴨がのどかに泳いでいた。横浜の外人居留地や商店街を見た目には、当時のホノルルはいかにも淋しい漁業港にすぎなかったが、それだけに、のんびりした平和郷であった。……中略……移民たちには、見るもの聞くものがみな珍しく、夢心地の者がすくなくなかった。紅白とりどりの花、バナナの大房、椰子の実、屋根のような榕樹などは、おどろきの的であった」

 一八六八年にホノルルの町なかを構成していた一帯が、いまではホノルルのダウンタウンの、昔からダウンタウンと呼ばれている、日本人街やチャイナタウンがあった一帯として、いまでも残っている。

 当時と現在とを比較してもしようがないのだが、地図に描いてくらべてみると、百年前とほとんど変わりのない地図ができるのには、すくなからずおどろかされる。

 折れ曲がっていた道路がまっすぐになったり、途中までしかなかった通りがずっとながくのびていたりするのは、百年もあいだがあるのだから当然だけど、基本的にはほとんど変わっていない。当時、東はアラケア、西はマウナケア。南はクイーン、北はベレタニアの各ストリートによって四角にかこまれた地区が、おおよそ、ホノルルの町だった。

 いまも、この一角は、そのままある。南北に走っている道路のうち、当時とちがっているのは、まずスミス・ストリートだ。ベレタニアからホテル・ストリートまでしかなかったのだがクイーン・ストリートまでのびてきていて、マリン・ストリートはこのスミス・ストリートとT字交差し、いきどまりになった。

 べセル・ストリートとカアフマヌの二本のストリートは、当時は別々の道だった。だが、いまでは一本のまっすぐつながった道路になり、べセルの名が残り、カアフマヌの名は、とんでもないところの道路に冠されている。

 フォート・ストリートは、いまではマーチャント・ストリートからべレタニアまで、自動車の入ってこれない遊歩道になっている。一八六八年当時、すでに、フォート・ストリートは、馬車に乗って買物にくるような白人のお上品たちを主たる客にしていた。ダウンタウンのここが、いま遊歩道になり、両側に商店がならんでいるのは、当時からの客筋のちがいの名残りだろうか、と考えてみたりする。フォート・ストリートの東どなりに、北はべレタニアから南は港まで、ビショップ・ストリートが南北に走っている。一八六八年には、このストリートは、なかった。

 べレタニアからビショップ・ストリートを海のほうにむかって降りてくると、左右一本ずつ、二本の道が枝分かれしている。右がユニオン・モールの遊歩道、左はアダムス・ストリートだ。二本とも、やがてホテル・ストリートに出る。枝分かれするところを頂点に、ホテル・ストリートを底辺にした三角地帯は、昔の名残りだ。東西・南北に、ほぼまっすぐに走っているストリートやアヴェニューのなかにまじって、斜めにのびている道路というものはそこだけなぜか異質であり、時間の進行のなかでぽこっと取り残された雰囲気がある。

 ホテル・ストリートからユニオン・モールに入り、ビショップ・ストリートに出て、ビショップを渡ってさらに斜めにいくと、ベレタニアとアラケアの交差するところに出る。この、みじかい斜めの道も、昔日のとおりだ。フォート・ストリート・モールからべセル・ストリートまでしか残っていないチャプレン・ストリートも、昔とおなじ位置にある。

 しかし、基本的にいくら変わりがないと言っても、現在のこのダウンタウンから百年前を想像することは、非常に数多くの手助けや知識がないと、まず無理だ。戦前の姿さえ、現在のダウンタウンからは、しのべないのか。現在はとにかく現在なのだ。

 いま、ダウンタウン・ホノルルというと、この一角よりもはるかに広い地区をさすのだが、なつかしい意味でのダウンタウンが、百年前とおなじ広さで残っている事実は、面白い。ある時期まで、この広さでダウンタウンは充分にダウンタウンとして機能したのだ。そして、その、ある時期からあとは、ほかのさまざまな場所が、いわゆる開発と発展をとげていったのだ。はじめて見る人の目で、現在のヌウアヌ・アヴェニューやホテル・ストリートを見ると、ポルノ屋と食堂、酒屋、バーなどが目立つだけの、機能をほぼ停止しかけた町のように見える。

 一八六八年、べレタニアとマウチケア、そしてキングとヌウアヌの四本の通りでかこまれた一角は、ほとんど全域が、中国人とハワイ人とによって占められていた。二階建ての建物は、木造のが一軒あるきりだった。

 この一角の、さらに南の一角、つまりホテル、マウナケア、キング、ヌウアヌの四本の通りにかこまれた一角は、中国人の食い物屋や住居、小さな店などが、ぎっしりと建てこんでいた。二階建ては、一軒もなかった。小さな木造の、小屋がせまい地区にびっしりと建っていった裏には、ちゃんと明快な理由がある。

 馬が買えるほどに金銭的なゆとりがあれば、商売の場所からかなり離れたところに住居を持てる。だが、そんなゆとりがなく、しかも毎日の生活が商いの活動によってぜんたい的に決められていく人たちは、商売の場所にできるだけ近いところに、住居を持つ必要があった。だから、小さな板張りの小屋が、いっぱいに建てこんだのだ。

 ヌウアヌ・アヴェニューには、何本かの路地があった。両腕を広げればつっかえてしまうほどのせまい幅の路地だ。入っていくと、突きあたりとなり、ありとあらゆるものの置き場になっていて、その雑多なとりあわせのみごとな集積にびっくりしてしまう。ニワトリや豚が、こういうところで飼われていた。

 いまのダウンタウンにも、なにげなく路地を入って、そのなかの光景にひどくおどろかされる個所が、いくつかある。なににどうおどろくのか。うわあっ、ここにはまさに人が住んで日々を営んでいる! というふうに、その営みのれきぜんたる証拠に、おどろくわけだ。

 古風な三階建ての建物にかこまれた一角の路地を入っていくと、中庭に面してその建物の裏面がある。二階まで、あるいは三階まで、縦横無尽に、階段や渡り廊下が、いまにもガラガラと音を立ててぜんぶ崩れ落ちそうな気配で、材木を使ってつくりつけてある。建物はみな、低所得者むけの共同住宅なのだ。しかし、低所得者むけの共同住宅、などという言葉からではとうていその内容をつかむことのできない、すさまじい日常の営為の証拠が、中庭まんなかに立つと、ながめられる。

 古びた木材でつくられた、あぶなっかしい渡り廊下や階段は、しかし、よくながめるとなかなか巧みに出来ていて、ちょっとやそっとでは崩れ落ちそうにない、したたかなものなのだ。

 おどろきは、ここで二重になり、三重になる。四角くて大きく、無愛想で手ざわりのない現代の建物がダウンタウン・ホノルルの近辺にはすでにいやになるほどたくさんあり、さらに急速に増えつつある。そんな建物をいくら見てもぼくはおどろかないし、気分はともすればダウンするのだが、ダウンタウンのスラムは、目を洗われるようなおどろきであり、感激だった。

 百年前にはじまり、現在にいたるダウンタウン・ホノルルでの日常の営為のいっさいを、ぼくも体験したい、と思うのだ。過去にさかのぼり、消え去った数々のディテールの影にそっと近よってみるためではなく、百年間のいっさいがっさいを、ダウンタウンという日常のなかで、現在そのものとして、ようし、体験してやろう、ということなのだ。

 とうてい無理だけれども出来なくはない、というユカイに矛盾した仮説をぼくは立てたばかりだ。明治の何年かに日本の山口県からこのダウンタウンにやってきて居ついてしまった男の孫は、いまようやく、百年前の風と日射しを体におぼえさせるところから、旅をはじめなくてはならない。

『一世紀前のホノルル ダウンタウンの横顔』という貴重な記録には、一世紀前にそのダウンタウンにいた人たちの日常が、わずかに一例、とらえてある。

 当時のホノルルには、豚やニワトリ、猫、犬が、とても多かった。豚は町なかでは飼ってはいけないことになっていたのだが、野放しだった。夜になると、エサをあさらせるために、暗い通りに放たれた。豚たちはよく墓場へ「食べもの」をあさりにいった。ニワトリは闘鶏が市民たちの大きな関心事だったから、誰もがたくさん飼っていた。猫も犬も多く、夜になると町をうろついて鳴き、うるさくて眠れないという苦情が新聞社にさかんに持ちこまれたりしていた。

 犬には、税金がかけられていた。馬の税金や、市民の人頭税とおなじ、一ドルだった。

 犬税の額を査定官がひとりひとりの市民について査定する日には、ホノルルの犬あるいはその飼い主は、みな、くもがくれするのだった。だから、査定官は、ある日いきなり、やってきた。

 マウナルアに住む老人のところに、査定官がやってきた。家の前に一匹の犬がいた。

「一匹ならば税額は一ドル」

 と、査定官が査定すると、その老人は、

「この犬は、うちの犬ではない」

 と言う。

 飼い主のない犬なら殺したらよかろうと、老人と査定官のあいだで話がまとまった。

「殺しておきましょう。もうじきやります」

 と老人は言い、査定官は、ほかの家へまわった。

 しばらくしてひきかえしてみると、

「殺して、埋めました」

 と、老人が言う。殺すところを見ると、犬のしっぽが一本、土のなかから出ていて、ピクピクと動いている。

「あのとおり、埋めております」

「しっぽが動いているねえ」

「風が出てきたので、おおかたその風に吹かれて動いているのでしょう」

 査定官は、犬を掘りおこしてみた。毛布につつまれた犬は、死んでなどいなかった。老人は、一ドルの税金を支払った。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年

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2017年2月25日 05:30
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