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素敵な女性作家たち(2)

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素敵な女性作家たち(1)

■本を捜すときには、どうするのですか。カードとか、パーソナル・コンピューターとか、使うのですか。

 まさか。そんなことをするわけがないでしょう。買ってある本のつまっている棚のまえに立ち、適当に抜き出してみて、あ、これにしよう、というような出たとこ勝負です。

 一九六五年に続いて、こんどは一九七〇年代なかばのものを読んでみようと思って捜してたら、ジュディス・ゲストの『普通の人々』(邦訳は集英社文庫『アメリカのありふれた朝』)がみつかりました。これは一九七六年の小説です。映画になりましたね。映画のほうはまだ観ていなくて、いまこの小説を読んでいる途中です。

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Ordinary People,Judith Guest
1976[amazon日本|アメリカのありふれた朝|集英社|1981]

 さきほどの『彼女が人生の時』のロブ・フォーマン・デューにくらべると、このジュディス・ゲストは作家として明らかに凡手ですけれど、それはそれとして楽しめます。凡手とそうではない人とのあいだにどのような差があるかというと、凡手の人は絵に描いたような状況とか人物の配置とか、あるいは人物像とかを作ってしまい、まずそこで読者を退屈させますし、言葉使いも紋切り型で、退屈です。この二種類の退屈がならんでしまうと微妙な奥行きなどは絶対に生まれてこないですから、したがって凡手なのです。それに凡手の人たちは、たとえばさまざまな問題をかかえこんだ家庭関係の内部を、一般論的に案内してしまおう、と試みたりしますね。現在のアメリカにある家庭関係の問題の内部など、誰にも案内は不可能な世界ですから、案内をされてしまうとさらに退屈となります。

 しかし、なにからなにまですべて自己正当化しておいてそのことに気づかない母親と、なんでもすぐに譲歩してしまう父親とのあいだにはさまれた少年の、一種のダブル・バインド状況を描いていて、こういうことが多くの人たちの興味を引いているのだな、ということはわかりますから、その母親の書きかたなど、冷静に観察していくと面白いです。

 自己正当化はしてもいいけれど、それを子供に押しつけることだけは、してはいけないとぼくは思うのですが、こういうアメリカの小説に登場してくる母親は、ほんとに困ったものです。自分しか好きではなく、子供なんかすこしも愛していないように見えるのです。しかし、子供をほんとは愛していないということに彼女は気づいていず、充分に、あるいは人一倍に、自分は子供を愛していると思いこんでいるのです。私はあなたを愛していますよ、という自己正当化のストーリーを、ことあるごとに彼女は子供に押しつけます。

 それに呼応して子供が彼女に接近をはかり、愛情の表現を求めたりすると、もう大変なことになってしまいます。この子供は私に愛を強要している! と叫んで子供を拒絶します。それに対して子供が彼女に対立的な態度に出ると、私はこんなにあなたを愛しているのに、とわめくのです。さらには、子供との愛情関係がうまくいっていて、そのことから自分がよろこびを得ていると、自分のよろこびを子供という対立者にあたえてもらっているようで、そのような依存的な関係を本能的に嫌悪する、というようなことだって、あるのです。

 こういう母親には、一貫性がまるでないですから、ダブル・バインドのなかの子供が多少とも救われるのは、彼女から離れて、一貫性のある人物のもとで暮らすことだったりします。その、一貫性のある人物が、これもまた絵に描いたように登場して、子供はすこしは救われる、というようなことで小説としては終わりとなります。

 『普通の人々』からさらに十年あとの、ジェイン・アダムズという作家の『ためを思えばこそ』という小説を続けてぼくは読んだのですが、ジュディス・ゲストとよく似た凡手で、よく似た案内をしてくれるのです。この作品にも、自己正当化というものの具現のような母親が登場します。

 こういう母親が、なぜだか小説のなかにだけ存在する、というようなことはあり得ず、現実のなかにはもっと嫌なかたちでたくさん存在するはずですし、父親だって負けてはいないのですから、幸せな子供の日々、というものは、やはりあり得ないかもしれないですね。

 アメリカの家族関係は、問題の宝庫です。あまりにもそれは宝庫なので、家族に限らず、人と人との関係のありかたのなかに共通して存在する法則のようなものが、もはや有効性を失っているのかもしれない、というふうに考えたりもします。人と人とは基本的に対立しないほうがおかしい、という法則ですね。

■さきほど、男性作家と女性作家との差のようなことが話に出ましたけれど、そんなにも差は大きいのですか。

 はっきりと、そして大きく、差があります。アメリカは、もともと、近代の文化国家としては男女の性差がとてつもなく大きな文化ですから、もののとらえかた、ものの考えかた、表現のしかたなど、両者のあいだには大きなちがいがあるのです。ことさらに男であることを強調したり、男の世界にこだわったり、男世界の価値観をいまだに信奉していたりすると、もはやそういうことは社会的に有効ではないし、みっともないので、二流以下の世界を別にすると、差は男性のほうから縮めていこうとする傾向はあるのですが、男はまだ確実に男ですね。

 いま突然に思いついたのですが、チャールズ・ウエッブの『卒業』(邦訳はハヤカワ文庫)という小説などは、明らかに男性作家のしわざです。シリアスな問題がいろいろと内蔵されているかのように見えるのですけれど、全編にわたって笑える部分がいくつかあり、読み終わったときの印象は、よく笑えて面白かった、ということになってしまい、そこでおしまいという感じが強いでしょう。男性作家のユーモアのセンスは、笑える部分がたくさんある、というふうにその小説にとって作用するのですが、女性作家の場合は、鋭いウイットがどこのどの部分とは指摘しがたいほどに細かく、ぜんたいにおよんでびっしりと内部へ深く浸透している、というふうに作用します。これだけでも、すさまじい差ですよ。

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The Graduate,Charles Webb
1963[amazon日本|ハヤカワ書房|1968]

 最近のもののなかでは、ダン・レワンドウスキーという作家の『勝ちとる値うちあり』なども、男性作家による作品の、ひとつの典型と言っていいです。タイトルは主人公の名前が語呂合わせのように使ってあり、その語呂合わせのほうで考えると、またちがった意味になってくるのですが、こういう凝ったユーモアは男性のものです。

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Worth Winning,Dan Lewandowski
1985[amazon米国|英語]

■内容は、どんなものなのですか。

 ひとりの素敵な男性がいましてね。あらゆる意味で素敵な彼は、まだ独身で、女性にかけては自信を持っているのです。その彼が、友人とひとつの賭をします。その友人が選び出した三人の女性のそれぞれを口説き、どの女性からも結婚の約束をとりつけてきたなら、ぼくのべンツをあげよう、というような賭です。

 彼は、三人の女性に接近をはかり、親しくなり、関係を結び、ひとりずつ結婚の約束をとりつけていきます。三人の女性が魅力的にうまく書きわけてありますし、彼はどの女性に対しても最終的には愛をまともに感じるようになるのですが、ぜんたいの感触は男の作家のものです。

 洒落たユーモアとか鋭く頭のいい感じ、アメリカふうではあるけれど洗練されたセンス、きわめて達者な部分とか、いいところはたくさんあるし、三人の女性の造形とか、彼女たちに対する彼のありかたなど、充分に気をつけてはいるのですが、すべてが出てくる源は、従来どおりの男なのです。非常に面白い小説ではあっても、よく出来たゲームのような印象があって、それは『卒業』にも共通してますし、男性作家のほとんどに共通していることです。

■女性作家たちの作品のほうが、より緊密に全体性のようなものを持っている、ということですか。

 そうです。いくつものアンソロジーで女性作家たちの短編を読んでいくと、ものすごいのがあるのです。それを書いた女性に短編集がすでに二冊あるとか、長編が一冊あるとか、クレディットでわかったりしますから、その短編集や長編を手に入れて読む。これが、楽しいです。信じられないほどにいい短編を書く女性が、たくさんいるのです。なぜこういう短編にすぐれたものが多いかというと、あの広い複雑なアメリカのなかで、ほとんどなんのあてもなしに短編を書くという創作活動をおこなうためには、その人にきわめて強靭な求心性がないとどうにもならないですから、そのような求心性にからめとられて、その人の感受性とか文章による表現の能力とか、とにかくその人の個性のすべてが、トータルなかたちでフルに発揮されないといけないですね。男性の場合は、そのような能力が、ゲーム的に、あるいは部分的に発揮されることが多いようですが、女性の場合はその人の存在のぜんたいにかかわる問題として発揮されてきますから、書くものも面白さの次元がちがってくるのです。

 エイミー・へンペルの『生きるためのいくつもの理由』という短編集は、たとえば最近の収穫としてたいへんなものです。アンソロジーで短編を読んで、この短編集のことを知って手に入れたのです。じつに美しい本で、素晴らしい短編が十五編も載っていて、いちばん最初にある『浴槽のなかで』という二ページに満たない短編は、驚愕するほどに素晴らしいものでした。続けて次の短編を読むのがもったいないような、敬虔な気持ちにすらなります。どんな人がこういうものを書くのだろうかと思うと、ジャケットの裏に写真があって、なかなか素敵な人なのです。

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The Reasons to live,Amy Henpel
1985[amazon日本|英語|kindle(OHarper Perennial; Reprint,1995)]

 こんなふうにして知ったエイミー・へシペルやボビー・アン・メイスン、ローリー・コルウィン、ルイーズ・オードリッチといった女性作家たちに絶賛の手紙を書き、それをきっかけにときどき手紙のやりとりをおこない、あるとき、アメリカへいって彼女たちを順番に訪ねて会い、いろんな話をしてあっさりと別れ、また次の作家のところへむかうという、そんな旅をして遊びたいと、ぼくは思いはじめてます。

 ドーナツ・ショップのテーブルにさしむかいにすわり、ドーナツとコーヒーで小説の話をするのです。最高ですね。作家たちはそれぞれとんでもないところに住んでいるはずですから、たとえばサンフランシスコからモンタナへ、そしてサンタフェ、ダラス、アトランタ、ニューヨーク、ボストンというふうに、著作がまだ三冊くらいの女性の書き手たちを訪ねてまわると、楽しいはずです。これからは、こういう遊びをしたいと、ぼくは思っています。

(了)

(『日常術 片岡義男〔本読み〕術ー私生活の充実』1987年、エッセイ・コレクション『本を読む人』エッセイ・コレクション所収)

*以下の”質問”は、編集者からの事前の「中心的な質問」を「受け取ったのち、自分で自分に質問し、自分でそれに答えるというスタイルで、自分の読書について書いた」(あとがき)もの。

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1987年 『日常術 片岡義男〔本読み〕術ー私生活の充実』 アメリカ エッセイ・コレクション 女性 小説 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 読む
2017年1月24日 05:30
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