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アメリカらしさの核心のひとつを体現している人の人物像を、完璧に近い傑作小説で読むという感動

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 トーマス・コッブという作家の最初の長編、『クレイジー・ハート』は、たいへんな傑作だ。カントリー・アンド・ウエスタン・ソングの世界のなかでつかみ得るアメリカらしさの核心的なハートを、彼は素手でつかんで僕の目のまえに差し出してくれた。

 主人公のバッド・ブレイクは五十七歳だ。カントリー・アンド・ウエスタンの世界で彼は優秀なソング・ライターであり、スター歌手としても最高の地点に立ったことがある。ギターを弾かせればマール・トラヴイスをひとまわりもふたまわりも大きく深くしたような人であり、歌うとレフティ・フリゼルをおなじくひとまわりもふたまわりも大きく深くしたような人だ。

 いまでも彼の名や彼のヒット・ソングを知る人は多い。自分でヴァンを運転してワン・ナイト・スタンドを追いかけるぶんには、仕事はまだ充分にある。しかし新曲の録音をすでに五年間、彼はおこなっていない。強度のアルコール依存症であり、太りすぎの体は心臓と肝臓に深刻な障害を発生させつつある。かつて遠い昔、彼にも妻子はあったのだが、いまでは独身の生活が長い。

 全編を太くつらぬいている一本の柱は、この主人公の生活ぶりだ。一九七八年モデルのダッジ・ヴァンに、愛用のギターであるグレッチのカントリー・ジェントルマンと、これも長く使って来た腹心の部下のような、ローランド・キューブのアンプを積み、ひとりで延々と運転しては、田舎町のワン・ナイト・スタンドを追いかけていく。ウイスキーをがぶ飲みし、ポールモールをたて続けに喫い、太った体には滝のように汗をかき、チキン・フライド・ステーキにマッシュド・ポテトとトウモロコシを添えたというようなロード・フードで体を支えていく。冷房を強くきかせたモーテルの安宿からまた次の安宿へと、一年の半分以上を転々として過ごす。客に歌って聴かせる世界は、よく知られたカントリー・ソングで言うなら、『フェイデッド・ラヴ』や『リリース・ミー』そして『クレイジー・アームズ』などが描く世界だ。

 田舎町のワン・ナイト・スタンドを中心にした彼の生活背景はリアリスティックによく書けている。本質の中心を正面からとらえ、重さと軽さの絶妙に交錯する筆致で、生活背景すなわち主人公そのものを、著者はスリル豊かに描き出している。もはやほとんどすべてを成りゆきにまかせたまま、ただ転がっていくほかない彼の日常が、この小説の大部分をしめている。僕はカントリー・アンド・ウエスタンのほぼ全域が好きだが、もっとも好いているのはこの小説が描いているような世界だ。

 離婚して幼いひとり息子を引き取り、ひとりで生活しているまだ若い女性との、新しい愛を手に入れるチャンスが彼のところにもめぐって来たりもするのだが、アルコールに依存して長い彼の生活は、世代も背景もすべて大きくちがう女性との愛など、とてもではないがすくい取れないほどに、すでに網の目はぼろぼろに裂けている。

 かつて妻だった女性とのあいだに、ひとりの息子がある。とっくに成人しているその息子のことが、この二十何年、ずっと彼の頭のうしろで気になってはいたのだが、会いにもいかず手紙も書かないという音信不通の状態を彼は保って来た。そのひとり息子に彼は会う。愛が生まれはじめた若い女性の、直感的な強い勧めに彼はしたがったのだ。そして彼は、そのひとり息子から、父親と息子としての関係の再開を、あっさりと拒否される。

 ひとりの女性との愛、そしてひとり息子との関係が、傍系のプロットとしてぜんたいに合流してはいるけれど、中心はバッド・ブレイクの転がりゆく日々であり、それを描くことによって自動的に同時に描かれていく、彼自身の全身ポートレートだ。そしてそのポートレートは、真のアメリカらしさというものの、核心の具現のひとつだ。

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Thomas Cobb,Crazy Heart

1987[amazon日本|英語|kindle(Harper Perennial,2010)]

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

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1986年 1995年 『クレイジー・ハート』 『水平線のファイル・ボックス 読書編』 アメリカ エッセイ・コレクション トーマス・コッブ 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』 読む
2017年1月22日 05:30
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