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一人称による過去形。しかし世界はいつのまにか現在。日系四世の女性の浮世。アメリカン・ドリームの外縁のいちばん外に近いあたり

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 シンシア・カドハタの小説、『ザ・フローティング・ワールド』のタイトルは、浮いている世のなか、つまり浮世という日本語の、英語への直訳だ。そしてこの場合の浮世とは、一九五〇年代のアメリカに存在した、白人中産階級を中心としたアメリカン・ドリームの、はるか外側の縁あたりを意味する。

 そのような浮世を生きるひとりの若い日系の女性、フジイタノ・オリヴィア・アンの、十四、五歳から二十一歳までの、成長物語だ。小説ではあるけれど、いわゆるドラマを作って描いてあるわけではない。おそらく作者自身だろうと僕は思うオリヴィア・アンの、成長していく過程でのエピソード集のようなかたちで、作者はぜんたいを書いている。

 フジイタノという名前は、藤井と板野をくっつけた名前なのだそうだ。オリヴィア・アンは、単純な順番で言うなら、日系の四世にあたる。曾祖父母たちは日本からまずハワイへ来たらしい。そしてそこからカリフォルニアに渡った。オリヴィア・アンというアメリカン・ネームは、第二次大戦がはじまるまえのハワイで小学校に入学するとき、地元の学校が日系市民の子供たちになかば強制的につけさせた名前だ。

 オリヴィア・アン、略してリヴィーと三人の弟たち、そして祖母に両親という七人家族は、小説がはじまったところではカリフォルニアにいる。一台のシェヴロレーにすべてを積みこみ、全員が乗りこんで、カリフォルニア各地を移動している。父親は肉体労働の仕事を転々と追いかけている。チャールズというこの父親は、チャーリー・オーあるいはマイ・ファーザーとして、登場している。彼は母親が再婚した相手であり、リヴィーにとっての実の父親は、別の女性と結婚してほかのところで生活している。母親は成熟した大人の女らしさを持った女性であり、チャーリー・オーはボーイッシュな人だという印象を私はいつも持っている、とリヴィーは彼女の一人称の物語のなかで書いている。

 リヴィーの両親たちは日系三世にあたるけれど、僕が子供の頃に身辺で親しく数多く接した、ハワイやカリフォルニアその他の地域の、二世の男女の感触や雰囲気を、彼らは久しぶりに僕に思い出させてくれた。

 バランスの崩れた部分をどこかに宿しながらも、たとえば夫にくらべるとはるかに大人としての成熟を感じさせる女性。「体でする仕事というものが、もう完全に自分そのものになってるからね。仕事をするときには、なにも考えなくても、この両手が的確に動いてくれるんだよ。だから頭や心では、僕はなにも考えなくていいんだ」と、自分の両手をリヴィーに見せながら語るマイ・ファーザー。

 リヴィーが彼をボーイッシュと評するとき、彼が童顔であったり若く見えたりすること、あるいはいつも元気で陽気な人であったりすることのほかに、肉体労働のみを追いかけているあいだに生まれてくる、どこか取り残されたような成長不充分な部分について、リヴィーは語っているのではないかと僕は思う。

 いわゆる小説としての明確なストーリー・ラインを持たないエピソード集は、三分の一あたりまで読み進むと、たとえば読んでいく僕に対して、不思議な効果をすでに発揮している。エピソードのひとつひとつは、なぞらえるならおそらく煉瓦の一個一個だろう。エピソードとは、ある時空間のなかでくりかえされる日常生活のなかでの、体験をとおして心の内部に記憶として蓄積されていく、大切ななにごとかだ。

 現実の煉瓦のように、サイズや重さが均一であったりするわけではないから、エピソードがじつは積み上げられつつある、という自覚のないままに読者は読み進んでしまう。そしてあるときふと、きわめて無理なく積み上げられた煉瓦の上に立っている自分を、読者である僕は発見する。そしてそのときには、物語のナレーターであるリヴィーに僕は完全に同化している。

 とっくに完了してしまったこととしてすべては書かれているにもかかわらず、読んでいく僕の時間のなかでは、リヴィーの過去は現在になってしまう。作者が一人称の過去形で書いたリヴィーの過去は、読んでいく僕にとってリヴィーの現在であり、そのなかに僕も同行者として入っていく。コントロールの充分にきいた文章ではじめて可能になることだ。

 カリフォルニアを転々としたのち、一家はアーカンソー州へむかう。そこでチャーリー・オーは友人と共同で自動車修理ガレージを所有する。それを経営しつつ自ら修理工として仕事をしていく、という展望が一家のまえにある。リヴィーはアーカンソーで十八歳くらいまで成長し、そのあとひとりで長距離バスに乗り、カリフォルニアへ出ていく。大学へいく予定だったのだが、入学は三年ほど遅れる。

 最終章の十八章では、リヴィーは二十一歳だ。この章にいたって、物語のぜんたいはひとつの美しい高みを完璧に獲得する。たいへんな力量を必要とされることが、短いスペースのなかで、驚愕するほどにさりげなく、見事にこなしてある。

 二十一歳になったリヴィーのところへ、本当の父親の奥さんから連絡が届く。リヴィーの父親は死亡したのだ。生前の彼は自動販売機を商売にしていた。長距離バスのターミナル、その近くの食堂、小さな町のとあるバー、雑貨店の片隅など、置いてもらえるところに自動販売機を置き、その販売機で売れた商品の代金から店への手数料と商品の仕入れ価格を引いたものが自分の稼ぎになるという、なんとも言いがたくせつない商売だ。アメリカのあの広さのなかで、カリフォルニアからテキサス、アリゾナあたりまで、転々と小さな町を自動車でめぐり歩いては、販売機にキャンディーその他の商品を補給し、故障を修理しつつ代金を回収してまわる仕事は、アメリカン・ドリームという円の完全に外にある世界だと言っていい。

 夫が死んだあと、当座のつなぎとして、各地の販売機をひとりでまわる仕事を引き受けてもらえないかと、実の父親が再婚した妻は、リヴィーに頼む。リヴィーはその仕事を引き受け、ひとりで仕事の旅に出る。

 生前の実の父親が、死ぬ直前まで続けてきた仕事という日常、つまりリヴィーから見ると完全に他人ごとの過去とは言いきれない過去を、自分にとっての完全な現在とは言いきれない現在のなかで、彼女は体験していく。過去と現在が重なり合うところに、過去でもなければ現在でもない、まったく別種のきわめてスリリングな時間が生まれる。

 アメリカ南西部の小さな町の、たとえば雑貨店の片隅に、一九五〇年代からあるような自動販売機を見かけたら、僕はその販売機でキャンディーやガムを買うだろう。そしてオリヴィア・アンとそのふたりの父親、そして母親や弟たちを、僕はきっと思い出す。

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The Floating World

Cynthia Kadohata,Ballantine Books,1989[amazon日本/used book]

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』太田出版 1995年

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1995年 『ザ・フローティング・ワールド』 『水平線のファイル・ボックス 読書編』 アメリカ エッセイ・コレクション シンシア・カドハタ 日系 書評 片岡義男エッセイ・コレクション『本を読む人』
2017年1月21日 05:30
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