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早稲の田に風はほんとに吹いたか

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 高校の三年生になると大学進学に関するさまざまなことが話題になってきていたが、ぼくは大学へいく気などまったくなかった。ぼくは学校の勉強が好きではなく、勉強とはデスクにむかって教科書や参考書にアンダーラインを引くことだと考えていたから、これから大学へいってさらに四年も勉強することなどまっぴらだ、という考えでいた。

 したがってぼくは、高校を出たら就職する気でいた。学校でアンケート調査などがあると、将来の希望する職業、などという項目に対しては、「海賊」とこたえたりしていい気持になっていた。

 しかし、海賊はロマンチックな夢でしかなく、もっと現実的な職業をさがさなくてはいけなくなり、強いあこがれの気持だけから、「長距離輸送トラックのドライバー」という職業をみつけ出し、卒業したらぼくはこれになりますと、先生に言っておいた。ぼくが高校生のころ、トラックによる物資の輸送が日本経済の要となりつつあり、まだろくに整備されていない国道システムのなかで、トラック・ドライバーはすでに少年にとっての英雄であった。

 高校三年生の夏休みに、ぼくは、自分はまもなくトラック・ドライバーになるのだという決意を、父親に語った。ぼくの父親は日系のアメリカ人であり、言葉やものの考え方など、完全にアメリカ人だから、きわめてアメリカ的な説得のしかたで、ぼくのこの決意をひるがえさせた。

「そのような決意をみちびき出すための土台として、きみは自分や自分をとりまく現実に関していったいどれだけの認識をしたのか、よく考えなおしてみろ」と、父親は言った。

 長距離トラックのドライバーという職業はきわめてロマンチックな理由から選び出したものであったから、考えなおすまでもなく、土台もなにもない決意だった。

 しかし、夏休みいっぱいかけて、ぼくは、自分自身について、そのときの自分に可能なかぎり、真剣に考えてみた。

 夏休みの終りが近づいて、ぼくは、結論を出した。出さざるをえなかった、と書いたほうが正確だろうが、とにかくいまはまだ長距離トラックのドライバーにはなれない、という結論を出した。

 自分自身についてよく考えてみてはっきりしたもっとも重要なことは、自分にとって自分がまるっきりわかっていない、という事実だ。

 自分とはなになのか。自分にはいったいなにができるのか。自分にはなにがむいているのか。いったいなにをやれば自分は幸せなのか。こういったことがかなり鮮明に、そして変形なしに認識できていないかぎり、職業などとうてい決定することはできない。ごくあたりまえのことだが、高校三年生の自分にとってはかなりのショックをともなった発見だった。

 自分がなにであるかを見つけだすためには、それなりの時間の量が必要だ。自分がなにであるのかまったくわかっていない状態は、不安な状態であったから、その不安に対するカウンター・バランスとして、自分を見つけだすためのモラトリアム的な時間の量は、多ければ多いほどいいように思われた。

 大学へいけば、すくなくとも四年間は、猶予の時間が手に入る。よし、それでは大学だ、とぼくは思った。ぼくを大学にいかせるつもりが父親にあるのかどうか不明のまま、大学へいく決意をぼくは彼に告げた。彼は、じつにあっさり、OK、と承諾してくれた。

 一流の大学へいきたいとか、この大学よりあの大学のほうがいい、といった大学えらびは、まったくやらなかった。四年間という時間が手に入りさえすればそれでいいのだから、どこでもよかった。ただし入学できないことにはどうにもならないので、ぼくには入学できる大学であればどこでもよかった、と言うべきだろうか。

 高校三年の冬に受験勉強をはじめたとき、勉強の材料に使った問題集に、全国の大学のリストがのっていた。このリストを何度となくながめては、どの大学にしようか、と考えた。

 当時のぼくは東京にいたが、少年期のなかばまでは、瀬戸内海の見える山陽ですごした。だからまずその地方の大学をさがしたのだが、名前の字づらを見ただけでなんとなく好きになれる大学は、なかった。

 大学で専門になにを勉強するのかについては、ぼくはなにも考えなかった。四年間という時間を手に入れ、その時間のなかで自分なりの試行錯誤をやってみるつもりでいたから、専門の勉強をなににするかは、関心の外だった。

 だから、大学を選ぶのも、名前の字づらが持っている雰囲気で選ぶのが、もっとも正しいように感じられた。そして、結局、ぼくが選び出したのは、早稲田大学だった。「早稲田」とは、じつに素敵な言葉ではないか。早稲の田んぼだ。風景が見えてくる。風が香ってくる。イメージとしては純日本的にクラシックで、野外のおおらかな雰囲気がある。高田馬場までいくと現実に早稲の田んぼがあり、そのなかに大学が建っているとはさすがに思わなかったが、字づらが持つイメージとして、早稲田はけっして悪くない。

 ぼくは、早稲田にいくことに、きめた。

 そして、友人たちに、笑われた。おまえが早稲田大学の入学試験に合格するはずがない、と彼らは言うのだ。先生も苦笑し、「ま、受けるだけ受けてみろ」と言っていた。

 このときから試験日までの、残された三か月ほどのあいだ、ぼくは受験勉強をした。英語、国語、そして世界史の、三科目の勉強だ。

 試験の日が、やってきた。いまでもそうなのかもしれないが、当時の早稲田大学はたいへんな倍率だった。ぼくは法学部をうけたのだが、大きな教室にびっしりと机がならび、受験生がいっぱいつまっていて、そのなかのひとりがぼくだった。


 試験の監督に来ていた、まだ若い非常勤の講師のような男性が、「今年の倍率では、この教室にいまいる人たちのうち、合格するのは三名くらいだ」と、言っていた。まわりの受験生たちはおどろいたような顔をし、ぼくもすくなからずおどろいた。

 一科目の試験に一時間ずつ時間が割り当てられていたが、どの科目も、ぼくは十五分ほどで回答が書けてしまった。ほかの人たちは、答案用紙にかがみこんで一心不乱だ。これではもう自分はぜったいに合格しないという確信を得て、結局は一生に一度だけとなった大学受験はあっけなく終わった。

 試験の発表は、友人に見にいってもらった。すっかりあきらめていたので、友人にみんなまかせたのだ。友人から電話があり、合格している、と言われたが本気にせず、冗談だと思っていた。入学金をおさめる期限ぎりぎりになって、冗談ではないのだということを知った。

 いまこの文章をこんなふうに書きながらつくづく思うのは、ぼくが大学に入れたのは九十五パーセントくらいまでは偶然であり、モラトリアムの四年間をすごせたのは、非常にラッキーであり、恵まれていたということだ。

 大学を出てもまだ、自分がなになのかはよくわかってはいなかったのだし、自分を見つけるための作業はそれから長くつづくこととなったのだから、まずそのスタート地点に大学の四年間がなかったなら、非常に厳しい状況のなかにぼくは落ちこまなくてはならなかっただろう。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年

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1980年 コーヒーもう一杯 勉強 東京 自分 高校生 高田馬場
2017年1月16日 05:30
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