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かつて見た島のジオラマ。 小さな島は、膨大な量の時間だ。 人類のはじまりについて、空想を開始しよう。

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 子供の頃、アメリカの博物館で見た島の模型を、いま僕はしきりに思い出している。十メートル四方ほどの大きさの、高さおよそ三メートルという、かなり大きなガラス・ケースのなかに、その島の模型は現実感ゆたかに作ってあった。

 そのガラス・ケースへ歩み寄っていくとき、ケースのなかに作ってあるものがいったいなになのか、僕には見当をつけることが出来なかった。下のほうが太く、上へいくにしたがって細くなっている一本のまっすぐな円錐のようなものを、僕はそのケースのなかに見たのだ。

 ケースのまえに立ち、よく観察すると、それは島の模型だということがわかった。海底火山によって出来た、ひとつの典型的な島が、海底から洋上にいたるまで、模型で再現してあった。奇妙な感動を覚えつつ、そのきわめて立体的なジオラマを飽かず眺めたときの僕が、いまの僕の内部にほとんどそのまま残っている。

 広い海底が、じつにリアルに作ってあった。いかにも海底らしい色をした、複雑な地形の地面が、もっともらしく起伏してガラス・ケースの底いっぱいに展開させてあった。その海底に、あるとき、火山が噴き出てきた。海の底で地面が割れて熔岩が噴出し、その周囲の水は煮えたぎった。熔岩はなおも噴き出し、海底に出来た火山はすこしずつ高くなり、やがて海の底で山となっていった。

 火山の噴火は止まず、山はすこしずつ確実に高くなり、数万年ののちには、その山の頂上はついに海の上に顔を出すまでにいたった。

 洋上に出た部分は容積を増していき、島と呼びうるほどの大きさになり、ほどなく火山の噴火はおさまった。いまその火山は死火山であり、島の頂上にあるもっとも高い山とその噴火口に、昔の名残をとどめている。

 というような、海底火山によって数万年がかりで生まれたひとつの島のぜんたいが、ガラス・ケースのなかの巧みなジオラマとして製作してあり、展示してあった。それを子供の僕は見た。科学的に正しい、したがってたいへんにスリリングな説明文を、僕は何度も読んだ。

 その島がある海は、水深三千メートルほどに設定してあったと、いま僕は思う。水深三千メートルの海にある島とは、高度三千メートルを越える山なのだ。ジオラマの島は、ものの見事に、山だった。ふもとは堂々と太く広く、上へいくにしたがってすこしずつ細くなっていく一本の円錐、それが海底火山による島だ。

 このジオラマの影響を強く重く、いまでも引きずっている僕は、島について思いめぐらすときはほぼ必ず、海のなかに立っている円錐を思い浮かべる。ジオラマのなかには、洋上まで到達することの出来たその一本の円錐のすぐかたわらに、途中でとまってしまった円錐も、作ってあった。海底の火口にとどまった部分もあった。海底の片隅には、難破して沈んだ昔の帆船が、朽ちつつ横たわってもいた。

 ガラス・ケースの高さは、三メートルないしは四メートルほどだった。子供がケースのまえに立つと、海底から洋上にむけてそびえていく円錐の、ちょうどまんなかあたりに視線がいくのだった。目を伏せるとそこには海底があり、ふり仰ぐと淡くブルーに着色したガラスが、海面の模型として、見えていた。海の上に出ている島には、椰子の樹が生えていた。そしてその島には人が住んでいて空港があるのだろう、旅客機が一機、着陸のため島にむけて高度を下げつつあった。

 これこそまさにひとつの島なのだと、あのときのジオラマを思い出しながら、僕は島というものについての僕なりの基本的な認識を、さらに深める。島は、海底からのびあがってきた、一本の円錐だ。

 海底に火山が噴火してから、海の上にそれなりの大きさの島として安定した存在を続けるにいたるまでに、数万年という量の時間が経過している。島としては、それは別にどうということもない、ごくあたりまえのことなのだが、僕というひとりの人間のスケールに対比すると、数万年という時間はなんと言っても圧倒的にすごい。

 島は、だから、時間なのだ。すでに経過し去った数万年という量の時間を、その内部にたたえた容器のようなものだ。経過した部分だけを考えるなら、ひとつの島は過去の時間だ。未来にむけて現在を通過しつつ、いまでも経過を続けている時間としてとらえるなら、島は時間そのものだ。しかも、過ぎ去ったぶんだけでも数万年という、膨大な量の。

 飛行機に乗った僕が、巨大な海を越えていく。その巨大な海のまんなかに、ぽつんと小さな島がひとつある。飛行機はその島に着陸する。僕は飛行機を降りる。その瞬間の僕は、数万年という量の時間の突端へ、降り立つのだ。海底から三千メートルを延々と立ちあがっている円錐の頂上に立つ、という自覚のしかたも好きだけれど、いまの僕としては、時間のてっぺんに立つのだという自覚のしかたのほうが、抽象的で楽しい。

 万単位で積み重なってきた時間の頂点に立つ、という体験をしてみたければ、海底火山によって出来た小さな島へいくとよい。

 海を越える手段として船しか存在しなかった昔、どこかに別な陸地をみつけようとして大航海に出た人たちにとって、何十日ぶりかで目にするひとつの小さな島は、いったいなにだったのかと、僕は思う。

 小さな帆船に食料と水を積みこみ、どこにあるとも知れない別の陸地をめざしていったん出航してしまったなら、この世から事実上は消えたのとおなじだったのではないだろうか。海をどこまでも船でいけば、やがて海の縁へ到達し、その縁を越えて底なしの空間へ落ちていくのだ、というようなことを信じていた乗組員だって数多くいただろう。

 来る日も来る日も、見えるものは海とその波だけ、という日をくりかえし、このまま自分たちはどこへもたどり着くことは出来ないのではないかと思いはじめる頃、海の彼方にぽつんと小さく島影が見えたとき、人はどの程度までうれしいだろうか。

 それほどにはうれしくなかったのではないか、と僕は空想する。自分たちが生きてきた陸地をあとにして、ほとんどなんのあてもない航海に出るとき、乗組員たちはすでによく知ってる自分たちの陸地をはるかに上まわる、とてつもない陸地を発見することを夢に見ていたはずだと、僕は思う。

 巨大な海の広がりのなかの小さな島を見れば、多少はほっとするものがあるだろう。食料や水は補給出来るし、しばし陸の上で休むことも可能だ。しかし、補給や休養が終わったなら、その小さな島は、ただちにあとにすべきものだったのだと、僕はさらに思う。

 彼らは、空間を征服しようと試みていた。海のむこうのどこかに、自分たちのまだ知らない途方もない空間つまり陸地を発見し、その空間を征服しようとしていた。海のなかの島は、そのような征服のための、たまさかの前進基地であり、陸地への夢をかかげて後方に置き去りにすべきものでしかなかったのだと、僕は空想を結論する。

 陸地などあるかないかまったくわからないのに、とにかく船で出かけてみるという冒険は、人類がその生誕のときからすでに持っていた空間征服の願望の、ひとつの具体的なかたちだったと僕は思う。黄金や香料は、出かけてみたらたまたまそこにあったものにすぎない。

 小さな島は、空間の征服願望の対象としては、明らかに手ごたえがなさすぎる。しかし見つけたからには征服のプロセスは、はじまったのであり、はじまったからにはなんとかその先を征服してしまわないと気がすまないのが、人間というものだ。

 たとえば観光地として世界的に知られている島、というものは、征服された空間として、ひとつの典型たり得ている。

 出来るだけ速くに、出来るだけ大量の人間を運びこむのは、人間が好んでおこなう空間の征服の、定石的な手段のひとつだ。観光地として知られている小さな島へ、ジャンボ・ジェット機が、一度に何百人という数の人間を運びこむ。そして、それ以前に運びこまれていまは帰路につこうとしている人たちを、おなじく胴体いっぱいにかかえて、島から飛び去っていく。

 東京都の大島でも、太平洋のハワイでも、観光地としての島をある視点から抽象的に観察すると、そこでは大量の人の搬入と搬出がくりかえしおこなわれている。運びこまれ、そして運び出される人の数が多ければ多いほど、空間征服の達成度は高くなる。

 観光というかたちでの空間の征服がなぜ成立するのか、その理由はきわめて簡単だ。人は仕事の時間というものをいつも大量に持っているからだ。仕事の時間からほんのつかの間、人は解放される。遊びの時間だ。そしてその遊びのひとつの典型は、いつもの自分の場所ではないところへ出かけていき、そこで仕事を離れた自分の時間をさまざまに楽しむことだ。仕事を離れて遊びのなかに解き放たれるやいなや、人は観光旅行というささやかなかたちでの空間征服を企みはじめる。

 僕はいま、人類のはじまりについて、空想を開始する。何万年か昔にこの地球に登場したクロマニヨン人の脳と、たとえばこの僕の脳とを比較すると、ほとんど差はないという。人間の脳は、スタートしたときから現在にいたるまで、変化も進歩もしていない。最初から、いまのような機能を持っていた。クロマニヨン人の赤ちゃんを僕がどこからか見つけてきて育てれば、いまのこの時代を生きる人としてなんら変わったところのない、たいへんに標準的な人として、その赤ちゃんは育ち得る。

 衣食住のような具体的にさしせまった必要について考えると同時に、たとえばクロマニヨン人たちは、時間という抽象概念に関しても、考えをめぐらせる能力を持っていたにちがいないのではないかと僕は思う。人類の脳とともに、時間というものは最初から存在していたのだ。

 クロマニヨン人が樹の実を取って食べようとするとき、よく熟した実とまだ熟していない実とのあいだには、経過した時間の差があることを、そのクロマニヨン人は最初から知っていた。実を作る樹が占める空間には、かならず時間がともなっていることを、彼らは最初から知っていた。

 時間の概念を人類が最初から知っているなら、いまの僕たちが時間から逃げることなど、とうてい出来はしない。一日の時間を多忙に細分化することを極力やめてみても、時間の概念および、いまこの瞬間にも時間は経過していきつつあるのだという認識からは、逃げきれるものではない。

 僕は明日、島へいく。日常を離れて、別の種類の時間のなかへ、しばし身を置きにいく。僕が乗った飛行機が離陸したなら、僕は翼の揚力によって高度一万メートルのところに支えられ、一種の胎児のようになる。

 飛行機は海を越えて飛んでいく。やがて、島が見えてくる。その島の空港に、僕の乗った飛行機は着陸する。僕は飛行機を降りる。そして島の地面の上に立つ。

 その瞬間、そうだ、これは時間なのだと、僕は認識をあらたにする。いま自分が降り立ったこの島という空間は、経過していく時間がその途中に作り出したものなのだと、認識しなおす。誕生した瞬間の人類が時間を認識したのとほぼおなじことが、ひととき僕の心の内部でもおこる。それは、人類が時間というものに関して最初におこなった知覚の、僕によるシミュレーションだ。

 子供の頃に見た模型の島の上空には、その島に着陸しようとしている旅客機が一機、飛んでいた。あの旅客機は、海底火山による島のジオラマとともに、たいへんな正解だったのだと、いまにして僕は思う。

(『永遠の緑色—自然人のための本箱』1990年所収|日付画像©佐藤秀明)

今日の一冊|『アイランド・スタイル』

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小説の前半部は、夜の海だ。星空と月明かりがあり、その絶妙の光の中で「僕」は海と、この島と、サーフボードが完璧に調和した幸福に身を委ねる。

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2017年1月13日 05:30
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