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遠い昔の日に

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 大昔のハワイでは、平民も貴族も、だいたい分けへだてなく平等にサーフィンを楽しんでいた。しかし、やはり貴族たちのほうが、有利だった。アリイと呼ばれていた酋長階級だ。平民のように直接の生産に従事せず、したがってヒマがあったから、アリイは平民よりもサーフィンの技術をみがく機会が多かったようだ。アリイたちは平民よりもたいていの場合、体のつくりが大きく体格や体力もすぐれ、押し出しも堂々としていた。

 酋長階級の中で自分の地位を保っていくためには、アリイたちは誰もが、肉体的に強くなければならなかった。いろんな格闘技に強く、体力がなければ、アリイとしての地位は保っていけなかった。サーフィンを巧みにこなすかどうかも、アリイにとっては重要なことだったのだ。だから彼らはそれぞれにサーフィンが巧みだった。サーフィン自慢の酋長が、サーフィンの腕前をタネに女性を口説くという内容の伝承物語が、いくつか残っていたりする。カメハメハ一世も、若いころにサーフィンを覚え、レレ・ワアが得意だった。レレ・ワアとは、カヌーに乗って波をつかまえ、その波の上へサーフボードごとカヌーから飛び降り、岸まで乗りきることをいう。

 ホノルルのビショップ博物館に、昔のサーフボードが十五枚、展示してある。貴族たちが使っていたのは長いほうのボードで、これはものすごい重い。こんなのを軽々とかかえてカヌーから飛びこみ、しかも波をつかまえそこなうことなく岸までライディングしていくには、たいへんな体力とサーフィン経験が必要だ。

 健康で体力のある肉体の、内部からの輝きみたいなものをサーフィンによってひっぱり出してくると、そのときはじめて、太平洋のまっただなかの島という自然と自分との調和が、具体的に見えてくるのではないだろうか。大きな波を自分のボードでうまくつかまえたときの、純粋に高揚した気持ちは、やはり単なるスポーツや肉体的な娯楽をこえている。

 サーフボードで波を乗りきるという、体力と経験を必要とする健康な行為によって自然の中に入りこんでいくとき、自分が乗った波という自然もまた、自分の中に入ってくる。自分の肉体の内部で両者が出会うとき、ある種の宗教的とさえ言える気持ちが生まれてくる。「サーフィンは単なるスポーツをこえている。それは心の状態なんだ」と誰もが言うのは、こういう意味でもある。

 アリイたちは、自分のサーフィンの腕前や、大きな波を幾度も乗りこなした栄光をたたえて、自分自身のサーフィン・ソングをつくってもらっていた。そして、このサーフィン・ソングをうたう専任のチャンター(歌い手)を、従者のひとりとしていつもかかえていた。じつに優雅なものだ。

 どんな感じの歌だったのか、英語に訳されているものを日本語にしてみよう。ハワイ島のカウに住んでいた、サーフィンの巧みなアリイ、ナイヘという男のためにつくられたものだ。この歌を、のちにキング・カラカウアが自分のサーフィン・ソングとして使っていた。

  巨大なる波、巨大なる波がコナに盛り上がる
  外に出してあるかもしれぬあの腰布を持ってこい
  引いていく潮が盛り上がり、腰布がはためく
  あの腰布、ホアカ、海岸で身につけるもの
  海に出るときにまとう腰布、酋長の腰布
  立ちあがって腰布をしめよ
  今日は波が大きい、ナイへのサーフボードにふさわしい
  彼は海に飛びこみ、泳ぎ、波にむかう
  カヒキからこちらへ向けて寄せてくる大波
  波頭の白い波、大きくうねる波
  ひとかたまりに砕ける波、砕けて広がっていく波
  すべてのものをこえてサーフが盛り上がる
  この島の荒々しいサーフ
  叩きつけ、のたうつ大波
  ヒキアウの白く泡立つサーフ
  正午にサーフに乗るための海
  小石や珊瑚を岸に洗い寄せる海。

 タブーの制度を利用して、酋長たちは、いくつかの特定のサーフィン・エリアを自分たちだけのものとし、平民には利用させていなかったという形跡もある。

 階級とは関係なく、島に生きる人たち全員がおなじ海でサーフィンをやっていたと、ヨーロッパの白人たちは書き残しているが、白人たちの手になるこうした記録は、ハワイ人たちの社会でタブー制度が崩壊してしまったあとの時代のものなのだ。女王専用のサーフィン・エリアのタブーを破った平民の若者があやうく殺されるところだったという内容の歌がひとつ、残っているそうだ。このサーフィン・エリアは、いまのワイキキだ。

 ワイキキが平民にとってタブーだった事実は、いま考えてもだいたい納得がいく。遠浅の砂浜と、長く一列になって寄せてくる丈の低い波という組み合わせは、ハワイの典型的な光景と思われているが、実際には典型ではなく、ワイキキのようなところはハワイでは珍しい。

 大昔のサーフボードには、オロとアライアのふたとおりあり、オロは完全にアリイたちだけに許されたものだった。アライアは、ビショップ博物館に残っているものでいうと、長さは七フィートから十二フィート、幅は平均して十八インチ、厚さは半インチから一インチ半。裏表のちがいは、なかったようだ。このアライアは、平民も酋長も、使っていた。速いスピードで砕ける、丈の高い波に乗るのに適している。アライアに比べると、アリイたち専用のオロは、はるかに大きく、堂々としている。

 現存するオロでいちばん長いのは、十八フィート。記録の中では、二十四フィートのオロがある。長さ二十四フィートの、ものすごく重いサーフボードは、腹ばいになってパドリングしていくだけでも大変だ。いま自分で乗ってみたら、胸やヒザがきっとまっ赤にすりむけると、ぼくは思う。オロのようなサイズと重さになってくると、乗る波が限られてくる。たとえばワイキキに寄せてくるような、テイクオフ出来る程度に盛り上がりはしたけれど、波を、沖のずっと遠くでつかまえ、まっすぐに乗ってくるというようなことしかできない。

 このような波のできる場所は、ハワイにはすくない。すくないからアリイたちの専用になったのか、それとも、大きくて堂々としたボードを自分たちの専用にしてしまったため、そのボードにもっとも適した波をも専用にしなければならなかったのか。

 あるいは、ワイキキの波を、遠くから岸に向かってまっすぐに、大きなボードに乗って進んでくるありさまは自分たちだけにふさわしい、と考えたのか。昔のボードとおなじボードをつくりいろんな波でためしてみると面白いと思う。現代のボードとはまるっきりちがった感覚で、波に乗れるはずだ。

 アライアによっておこなわれたサーフ・ライディングは、現代のとほぼ似ている。岸へ向かって動いていく波に対して直角ではない角度をとってライディングしていくテクニックもちゃんと生まれていた。ララ、という呼び名もあたえられていた。

 一八七八年、ハワイ島のヒロで七フィートのアライアに乗った男がライディングしていく様子が、次のように書かれて記録に残っている。

「ひとりが、すぐに飛びこんでいった。押し寄せてくる波の、すぐ前の、いちばん低いところから飛びこんでいき、腹ばいのまま何度か両手と両足で水をかくと、それだけでもう自分の位置がきまった。そして、信じがたいスピードで、なんの力も加えることなく、東へ向かって滑っていった。コースは、波の根もとに、波と平行にとっていた。滑りはじめて位置がきまると、脚のバネをきかせて、ボードのうえに両ひざをつく姿勢をとった。そこからさらにバネをきかせ、両足でボードの上に立ちあがった。胸に両腕を組み、ボードに立って波の根もとを滑っていった。やがて、その両腕を、彼はこのうえもなくうれしそうに振りまわしはじめた」

 波の前面の、低いところから飛びこんでいくという部分がよくわからないが、現代のサーフ・ラィディングとほぼおなじだ。ボードに立ちあがって腕を組むのが、典雅な感じでとてもいい。

 アライアとオロの区別は、現実にはそれほどの有効性を持たなかっただろう。砕けるスピードが速く、しかも高さのある波を豪快に乗りきるには、いくら自分が酋長であっても、アライアを用いなければ、どうにもならないからだ。

 サーフィンの技術、波に乗っているときの優雅さ、スピード、そして、巨大な波にたちむかうときの勇気などを、昔のハワイの酋長たちはとても大事にしていた。平民や、自分とおなじ酋長たちが見守る前で彼らはしばしばサーフィンをおこなった。

 女性を口説くためにサーフィンが利用されたことはすでに書いたけれど、それだけではなく、非常に厳しいコンペティションとしても、サーフィンはさかんにおこなわれた。初期にはコンペティションが大きな興味の中心であったということだし、サーフィンをめぐって賭けもよくおこなわれた。サーフィンのコンテストには必ず賭けがついてまわり、この賭けに対する情熱が、コンペティションを支えてくれてもいた。

 酋長たちのサーフィン・コンテストがおこなわれるときには、土の中で犬をむし焼きにし、参加者たちが適当につまんでは、体力の消耗をふせいだりしていた。タパでつくった赤く染めた布を、酋長たちは腰布に使って、サーフィン・コンテストに参加した。

 賭けがきまり、余興みたいなことがすべて終わると、コンペティターたちはサーフボードに腹ばいになり、あらかじめ定められた沖の地点まで出ていく。うしろから波が大きく盛り上がってくるのを待ち、いっせいにその波をつかまえ、乗る。岸の近くに浮かんでいるブイまで、波に乗っていく。これを何セットもくりかえし、最後に勝ち残ったひとりが、優勝だ。

 サーフィンとホルアの対決というコンペティションもあった。ホルアは、サーフィンに都合のいい波のできる海岸に接した丘のスロープでおこなう、ダウンヒルのスレッディングだ。自然の地形を利用し、丘のうえから海岸まで一直線に、平坦な、幅のせまいスロープをつくる。このスロープを降りきった海岸には、草ぶきの小屋が一軒、立っている。対決するふたりの酋長のうち、Aはホルア専用のスレッドを持ってスロープのうえに立ち、Bは、サーフボードに腹ばいになり、波のできる沖に待機する。

 いい波が寄せてきて大きく盛り上がったところで、草ぶきの小屋にいる人が、AとBのふたりによく見えるよう、白い旗を振る。スタート! の合図だ。丘の上のAは、力強く数歩、助走する。ソリを両手で構え、頭から飛びこむようにしてスローブに身を投げる。沖に出ているBは、パドリングで波をつかまえ、乗る。

 丘のスロープをソリが滑降し、海の波をサーフボードが滑ってくる。ABほぼ同時に、海岸に着く。草ぶきの小屋めがけて走る。さきに小屋に着いたほうが、勝ちなのだ。ハワイ島のケアウホウには、このホルアのスロープが、いまでも残っている。ヘエイア湾に面した丘に、数百ヤードのスロープが、まっすぐにあるのだ。

 サーフィンのコンペティションにからんでよくおこなわれる賭けは、サーフィン自体がかすんでしまうほどに熱狂的になってしまうことがよくあった。ハワイの住人たちは、ギャンブリングが好きだった。ポリネシアのほかの島々ではみられない、ハワイだけの特徴だそうだ。これと見こんだ酋長に、平民が自分の財産のすべてを賭けることもあった。負けたら、たいへんだ。殺されたり、自分と自分の家族が一生、その男の奴隷として生きなければならなくなったりした。

 サーフィンは、それ自体が特に宗教的な色あいをおびることはなかったけれど、昔のハワイには数多くのタブーを支える神がたくさん存在したから、宗教的なこととのからみ合いは、やはり多かった。たとえば、サーフボードづくりのアーティストが一枚のサーフボードをつくろうと決心したときから、シリアスな儀式がはじまっていくのだった。当時のサーフボードは、コアやウィリウィリの木からつくられていた。この木からつくろう、という決定がなされると、サーフボードをつくる人は、その木の根もとに一匹の赤い魚を置く。それから石斧でその木を切り倒し、根の中に穴を掘り、祈りと共に赤い一匹の魚を埋める。切り倒した木とひきかえに、神に捧げものをしたわけだ。昔のハワイの人たちにとって、森林や樹は、深い畏敬の気持ちをもって接すべきものだった。

 固い樹を一枚のサーフボードに削っていくのは、経験をつんだサーフボード・メーカーにとって、たいへんな仕事だった。樹の幹を、石斧でだいたいのかたちに削りこんでいく。海岸にあるカヌーをつくるための小屋へ持っていき、荒い珊瑚でヤスリをかけるようにして、ボードの表面を平らにしていく。平らになったのを磨きあげるには、オアヒという、石のバファーが用いられた。カヌーの胴体も、おなじようにして、磨かれた。

 磨いたら、色をつける。ティという植物の根や、クワイの樹の皮を叩いてしぼり出した汁などを塗りこむと、黒っぽい茶色のような色がつき、光沢も出てくる。クワイの実を燃やして出る煤や、パンダナスの葉を燃やして残ったかす、バナナの芽の汁などでも、おなじく色をつけることができた。色がかわいたら、クワイの実からとった油をすりこむ。

 これでサーフボードは完成だ。だが、海へ持っていくまえに、やらなければならない儀式が、いくつかあった。このボードがうまく波に乗れるように祈禱する儀式などだ。平民たちはしばしばこのような儀式を無視したが、プロのサーフボード・メーカーたちは、儀式をかたちどおり忠実におこなっていた。

(底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』1995年所収)

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ラハイナの赤い薔薇|片岡義男
良い朝食には良い朝が必要であり、それは前夜、つまり、良い夜からすでに始まっている。

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2016年12月20日 05:30
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