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ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。──(6)

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彼「どんなストーリーなのか、聞かせてほしい」

彼女「ある年の夏、ある日、ある男性から、私のところへ電話がかかって来たの。ある場所に置いたままの自分のオートバイを、東京まで乗って運んでくれないか、と彼はこの私に頼むのよ。彼のことは嫌いではなかったし、私が仲間としてまったく対等に信用されているみたいで、私はとてもうれしかったわ。私がそれまで一度もいったことのない、ある地方都市の駅まえの喫茶店の名を、彼は私に伝えるの。その喫茶店の店主にオートバイのキーが預けてあり、彼に言ってくれればすべてわかるようにしておく、と彼は言うの。私は、その陸送を引き受けたわ」

彼「ヘルメットやブーツ、そしてグラヴなどを持ち、ひとりでその町へいったのかい」

彼女「そうよ。いきました。ほんとに夏らしい、暑い日だったわ。駅まえのその喫茶店に入り、コーヒーを飲んでから、店主に来意を告げたの。彼のセダンで町はずれまでいき、とある民家の庭の片隅、物置の軒の下に、私が運ぶオートバイは停めてあったわ。店主は、 私に陸送を頼んだ男性からの手紙を、私に手渡してくれたの。その手紙には、オートバイを届ける先が書いてあったわ。いまでもよく覚えているけれど、四階建ての共同住宅の、 なかば地下のような駐車場まで届けるの。その建物はスロープの途中に建っているのよ。 だから、駐車場は、なかば地下なのね。シャッターの開けかたや、オートバイを停める位置などが、その手紙には書いてあったわ」

彼「陸送だけをしたのかい」

彼女「適当に遊んでくれてもいいということだったので、まわり道をして峠道を好きなだけ走り、ひなびた温泉に泊まり、おみやげに蜂蜜を買って、私は東京へ帰ったわ。そ して、手紙に書いてあったとおりに、オートバイを届けたの」

彼「キーは、どうしたの?」

彼女「部屋のドアの、郵便入れから中へ落としておいてくれ、という指定だったから、 私はそのとおりにしました。何日かあとになって、その男性から電話があったわ。どうもありがとう、と礼を言ってもらって、私はなぜだかひとりで感激していたわ。そして、ただそれだけの話」

彼「感激する気持ちは、僕にもよくわかるよ」

彼女「女性と知り合ったりしない話は、ないのかしら。自分ひとりだけの旅の話」

彼「僕はひとりでオートバイの旅に出ていて、恋人と呼んでいい女性は東京に残したまま、という話はどうだろう」

彼女「なにか特別に面白い部分があるのかしら」

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年


1996年 『永遠の緑色』 ふたりで語り合う物語。記憶のなかの、過ぎ去った夏。 エッセイ・コレクション オートバイ 会話 季節 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』
2016年11月22日 05:30
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