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彼は鉛筆を削りながら交差点を渡っていった

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 かつて鉛筆で原稿を書いていた頃、僕は自宅ではその鉛筆をナイフで削っていた。スイス・アーミー・ナイフ、つまりヴィクトリノクスあるいはウェンガーのどちらでもいい、長さ五センチと一センチ八ミリの大小ふたつの刃が一枚ずつついているだけという、単純なポケット・ナイフの、小さいほうの刃を使っていた。いまでも鉛筆を削るときはこれを使っている。

 この本のための材料を求めて、東京で文房具を買い求めた体験をとおして実感したいくつかのことのうちのひとつは、東京の文房具店にはかならず何種類もの鉛筆削りが売られている、という事実だ。鉛筆を鉛筆削りで削っている人が、東京にはこんなにいるのだろうか。鉛筆を丸い穴に差しこんで回転させれば、ほとんどひと動作で鉛筆は削れてしまう。先端の尖った芯がいますぐ欲しい、そこへ至るまでのプロセスはどうでもいい、という種類の人たちにとって、鉛筆削りは必需品なのか。しかし、そのような種類の人たちは、そもそも鉛筆を必要とはしないのではなかったか。ナイフを使えない子供、そしてそのような子供から大人になった人たちは、みな等しく鉛筆削りを愛用するほかないから、鉛筆削りが多いのか。

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 鉛筆削りを使うとせっかくの芯が少なくとも半分は削れてしまう。鉛筆削りを頻繁に使うのは、ひょっとして、絵を描く人たちだろうか。望みどおりに先端の尖った芯がいまただちに必要なとき、鉛筆削りはその必要に応えてくれる。だから彼らは惜しみなく削る。捨てることと交換に手に入れる新たな価値、というものだってあるのだ。

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 鉛筆削りの機能は、その構造とともに、ごく単純なものだ。この性能さえきちんと備えているなら、かたちはどんなものでもいい。いろんなかたちをしたものがある。三輪車、地球儀、飛行機など、いくつも僕は買った。白鳥だって色違いで三羽もある。可愛らしい幽霊のかたちをしたものも見かけた。黒い台座に透明なプラスティックのカヴァーという小さな立方体のなかに、削る機能だけがあるという必要にして最小限の鉛筆削りは、箱買いしてしまった。赤、青、黄色、それに薄緑色の四色が五個ずつだから、合計で二十個だ。さて、これをどうしよう。とりあえずひとつ、いつもポケットに入れて持って歩くことにしようか。ポケットのなかのアクセサリーなら、金属製のものがいいようにも思うのだが。

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 神保町に住んでいる、と言っていいほどの濃密さで神保町を拠点のようにして、二十代の前半そして後半の二十八歳くらいまで、雑誌と新書を中心にフリーランスのライターをして、僕は日々を過ごした。いろんな編集部のさまざまな編集者から依頼された仕事を、神保町でこなした。一九六〇年代の当時はまだ喫茶店の時代で、いたるところに喫茶店があった。神保町へ毎日のように出ていっては、喫茶店をはしごして、煮出されてなおかつ充分に酸化した当時のコーヒーを相手に、僕は原稿を書いた。雨の日には濡れずに喫茶店から喫茶店へと、軒づたいに歩けるルートを僕は何とおりも知っていた。

 公衆電話は街角のあらゆるところにあったから、編集部との連絡はいくらでも楽にできた。喫茶店にはピンク電話というものもあり、客はそれを使うことができたし、外部からの電話をそれで受けることもできた。餃子ライスにワカメ・スープという労働者の食事は神保町に豊富だった。バラライカのロシア料理が好ましい均衡を作ってくれた。いつでも泊まれる旅館は何軒もあったし、ビリヤードは要所ごとに夜遅くまで営業していた。編集者との打ち合わせは喫茶店だが、夜のバーになることもあった。そしてバーも数多くあった。着替えを買う洋品店は百メートル置きにあったし、もちろん書店は新本と古書のどちらも、まともにつきあったらそれだけでライフ・ワークになるほど、店の数は多かった。

 最初から遊びのような文章、あるいは半分くらいまでなら冗談だと言ってもいいような文章を、神保町の喫茶店をはしごしながら、毎日のように何とおりも書くのが、この頃の僕の仕事だった。仕事を終えると都電の最終でまず渋谷へと帰った。多少の時間はかかるのだが、ひとりで都電に揺られている時間は、いま思い返せば、たいそう貴重な時間だった。終点の渋谷に着くと、ちょうど待ち合わせの時間だったりした。

 この頃の僕の必需品だった文房具を、次ページ〔本ページ・トップ画像〕の写真のように再現してみた。原稿用紙はコクヨのA4サイズの四百字詰め横書きだ。縦書きがあるはずだが、横書きしかなければそれを縦書きに使えばいい。赤い軸の鉛筆。ステッドラーの芯ホルダー。黄色い鉛筆削りはいま僕が持っているもののなかで、もっとも小さくて軽く、しかも美しい。自宅では鉛筆をナイフで削っていたが、外ではこのような鉛筆削りを使った。喫茶店をはしごする途中、横断歩道の信号が変わるのを待ちながら、こんな鉛筆削りをポケットから取り出し、おもむろに鉛筆を削ったりしていた。

 ピンクの小さな立方体は消しゴム、そして薄緑色の可愛らしい物体は、芯ホルダーの芯削りだ。鉛筆と同時に芯ホルダーも僕は使った。喫茶店のテーブルの下で、ホルダーの芯先を芯削りの小さな穴に差し込み、二回転もさせれば芯の先端は削られる。削られた芯の細かな粉はフロアへと落ちる。丸い容器のようなものは鉛筆削りに透明なプラスティックのカヴァーをつけたものだ。これだと喫茶店の席で削っても、削られた小さないくつもの木片はフロアに落ちる心配はなく、これを使ってください、と美人のウェイトレスに灰皿を顔の前に差し出される心配もない。透明なカヴァーの部分を回転させると、鉛筆を差し込む穴がぴったりとふさがれる。

底本:『なにを買ったの? 文房具。』東京書籍 2009年

11月11日刊行! 『万年筆インク紙』

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自分の思考が文字となって紙の上に形をなす。
頭の中にうかんだ小説のアイディアをメモするための万年筆、
自分の思考をもっとも良く引き出してくれるインクの色、
そして相性のいいノートブックとは──。

作家・片岡義男が道具から「書く」という仕事の根幹について考えた
刺激的な書き下ろしエッセイ。


晶文社|ISBN:978-4-7949-6939-2 C0095|定価:本体1800円+税|四六判変型|288頁

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2016年11月6日 05:30
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