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表現された秋、という荒野を歩いてみた

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 いつから秋なのだろうか。秋はいつから、始まるのか。

 俳句歳時記を、僕は見てみた。

 「立秋(多くは8月8日)から立冬(多くは11月8日)の前日までが秋になる」

 とあっさり書いてあった。

 ついでに俳句歳時記のあちらこちらを、僕はひろい読みしてみた。

 新涼。葉月。やや寒。寝待月。青北風。出水。障子洗う。秋耕。鬼火市。などという美しい、情緒豊かな言葉が、歳時記のなかにはびっしりとならんでいた。

 寺田寅彦は、俳句歳時記を、「日本人の感覚のインデックス」と呼んだ。かつての日本の人たちは、毎日の自分たちにとってたいへんに大事で切実なものを持っていた。

 満点星紅葉、という言葉も、僕は歳時記のなかにみつけた。

 いまの日本の人たちにとっての秋は、サマー・セールから始まるのだと、僕は思う。夏という絶好の稼ぎどきが終わったなら、サマー・セールをあいだにはさんで、秋が来る。そしてその秋もまた、秋という稼ぎどきだ。

 現在の日本の季語は、商売という一語ですべて間にあうのではないだろうか。商売、つまり経済活動の日常的なありかたのひとつとしてのセールだ。春のセール。スプリング・セール。夏のセール。サマー・セール。秋のセール。心のインデックスは、商売、のひと言だ。そのひと言をめぐって、三日見ぬまの桜かなと言われるほど変化速度の早い季節が、あらわれては消えていく。

 歳時記のなかに残る季語が、いまもそのまま町のなかにあるとはもはや誰も思わないだろう。そんなもの、もうどこにもないと思いつつも、秋の後半、日本シリーズの頃を中心に、僕は街を歩いてみた。

 秋は街角にどのように存在しているかを、僕は確かめてみた。その秋は、表現された秋だ。メディアのなかの秋、と言ってもいい。 街角でなにごとかを常に表現しているのは、たとえば商行為としてのポスターであり、ウインドーの ディスプレーだ。

 秋の後半、街角に表現されていた秋は、旅行および食事という、 秋のセール品だけだった。ごくせまい範囲のなかでの、固定観念的な連想の、さらなる固定化のくりかえし、つまり、ごく幼稚な再表現の秋が、街角ではくりかえされていた。 かつて季節は、日本に生きる人たちの、あらゆる感情や倫理観、価値観など、すべてが混ぜん一体となった総体にあたえられた、表現経路として最重要なものであったのに。

底本:『昼月の幸福──エッセイ41篇に写真を添えて』晶文社 1995年

今日の1冊

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ときには星の下で眠る|片岡義男

夏のイメージが強い片岡義男の小説にあって、この物語は明確に秋を舞台としている。「時には星の下で眠る」という短編が先行してあり、それが北米大陸を舞台としていたのに対し、こちらは明確に、日本の、高原の秋だ。 「10月の終り、快晴の夜、つづら折れのながい道路を、彼はオートバイであがってきた。峠のてっぺんまでのぼりきると、そこがちょうど標高2000メートルだった」

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1995年 『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』 写真 季節 歩く
2016年10月23日 05:30
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