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大統領を鑑賞する

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 アメリカのTVニュースを見ていて接することの出来るレーガン大統領、あるいは彼のイメージについて、書いてみよう。

 ある種の強い魅力が、彼にはかつてあったことは確かだ。父親的な魅力だろうか。父親そのものではなく、もっとも強い人としての父親、というような存在の魅力だ。父親は、アメリカでは強くなくてはいけない。どのような状況が目のまえにたちあらわれても、あわてずさわがず、いつのまに準備をしてあったのか、とにかくその状況に対して、自分たちが最終的には有利になるよう、万全に対処することの出来る能力を持っていなくてはならない。レーガン大統領をTVで見ていると、かなり昔のアメリカの父親が持つべきとされていた、強い説得力のようなものを、たとえば喋りかた、表情、ジェスチュアなどに、ぼくは思い出す。

 大統領は、アメリカで最高のシンボル的な父親にならなくてはいけない。

 強大な権力を持つとされているそのような父親に、もっとも許されないのは、弱くあること、そして嘘をつくことだ。高潔さ、力強さ、説得力、明るさ、肯定の方向にむかうイメージ、ぜったいにやってみせる、という感じなどの頂上に、嘘はつかない、という不可侵の領域がある。失敗はしてもいい。失敗した、と言えばそれでいいのだ。そして、その場合、かならずしも謝る必要はない。

 大統領はいろんなスピーチをするが、レーガンの場合は、TVニュースで接するかぎり、いつもほとんどおなじようなことを言っている。アメリカは本来は強いのだ、アメリカが世界をリードするのだ、こんなことをされたらアメリカは黙っていない、武力はいまの時代のなかではコモンセンスである、テロリストには屈しない、私はアメリカのすべての人を見捨てない、というようなことを彼はくりかえし述べている。述べるたびに、雰囲気、語調、使う言葉など、ほぼおなじだ。

 レーガン大統領が外交がうまいとは、とても言えない。たとえば彼がマギーと呼ぶマーガレット・サッチャーとくらべると、彼は出来はあまり良くないけれど人のいい遠縁の兄、という感じがする。外交はサッチャーのほうが比較にならないほど上手であり、彼女ほどに外交が出来るなら、首相の職もエキサイティングだろう。レーガン大統領は、このような意味ではエキサイティングではないと、ぼくは思う。

 状況に対処するときのレーガン大統領の得意の手口のひとつは、次のようだ。たとえば演台にいるときに鋭い質問を受けたりすると、こいつあ困ったな、というような苦笑を浮かべて顔を傾け、演台の片隅を見る。そして絶妙な間をとったのち、顔をあげると、その顔には苦笑はもうなく、そのかわりに、すでに充分に世間を渡ってきて、したがって状況への対応能力を持った強い父親的なゆとりの微笑がある。そしてその微笑とともに、問題の本質とはほとんど関係のないジョークを言って、まず人々を笑わせる。

 なにかの記者会見の席上、質問者として立ち上がった女性記者が、演台の彼をはったとにらみ、まことに正論的なという意味での鋭い質問を彼にむけたとき、彼はいまぼくが書いたのとまったくおなじパターンで演技したのち、「俺みたいな優しい男に、ひどいことを平気で言うじゃないか」と、ゆったりした滑らかなマナーで、まず彼は彼女の質問の中和をはかった。TV ニュースを見ていると、このパターンは頻出している。

 ジョークとともに多いのは、あるひとつの問題を、彼個人の身の上のエピソードにすりかえ、彼の個人的な説得力、魅力、体験などの内部の問題として比喩的に語ってしまう、というやりかただ。問題のこのようなとらえかたは、アメリカの田舎町あるいは地方都市のものであり、彼は実利の人だとさきほどぼくは書いたが、その実利は、残念ながらアメリカの地方都市的な実利だ。

 目のまえの問題とあまり関係のないジョークを言っているレーガン大統領を見ると、そのジョークのすべてが、私はアドリブでいくほかないんだ、と告白しているような気が、ぼくにはする。なにしろ大統領だから、アドリブはまるであたりさわりのないものでなければならず、ふとしたはずみにジョークが過ぎると、たちまち問題になる。

 彼の持つ雰囲気がもっとも強力に作用力を発揮するのは、しかし、ジョークはつつしまなくてはいけない場面、たとえば外国で任務についていて命を落としたアメリカ兵士をアーリントンで葬送するときだ。

 葬送の儀式が終わり、あらたな涙にくれる遺族のひとりひとりの肩を抱いたりして、大統領は慰める。そのときの彼には、ほかのどの大統領も醸し出すことの出来なかった独特の雰囲気がかならず漂う。強いアメリカ、という彼が信じている理念の、具体的なあらわれかたのひとつだろう。

 レーガン大統領は、アメリカの歴史のなかでもっとも隔離された大統領だ、という認識のしかたが、アメリカの人たちのあいだにかなり広くあるようだ。

 彼はTVを、あるいはTVの効果を、巧みに使うことで知られた大統領でもあるが、史上もっとも隔離された大統領とは、TVを誰よりも巧みに使う大統領ということの裏がえしであるにちがいない。

 記者団のまえには出てこないし、国民の目のまえに現れることはもっとすくない、と言われている。どのくらいの頻度で現れるなら、隔離されていない大統領になれるのか、ぼくは知らないが、もっとも隔離された大統領というイメージは、彼の能力の当然の帰結なのではないかとぼくは思う。

 彼は、TVをとおして、基本的にはいいところだけ、つまりスタートの部分だけを見せておく大統領なのだ。中国へいっても、選挙キャンペーンに出ても、TVの画面に出てくるのは、現場用語で言うところの、グリップ・アンド・グリン(握手してカメラにむかってにっこり)のフォト・オポテュニティーの産物だ。絵になるショットをカメラマンたちが撮ることの出来る現場、それがフォト・オポテュニティーだ。

 いいところだけを見せていなくてはならないから、TVの画面にはそのような場面が非常に多く登場し、そのことのイメージ的な結果として、彼は史上もっとも隔離された大統領、ということになってしまう。これは彼の能力の帰結だと、さきほどぼくは書いたが、本当の能力は別にして、彼はとにかくそういう役割なのだ。同時に、彼をとおして、政治とTVの関係の限界を見ることもできる。

 大統領は、いつも記者団をまえにして、おなじパターンでなにか喋っている。いつも、すでにエンジンを始動させてあるヘリコプターで、ホワイトハウスの庭から飛び立っていく、大統領は、ふと、操り人形のようにも見える。アメリカの政権は、じつは傀儡政権ではないのかとも思うときがある。

 大統領には広大な権力があたえられている。しかし、大統領ひとりではどうにもならない領域も、充分に広い。すくなくともいまは、アメリカの大統領という職は、なんだか使用人のようでもあり、かなり退屈なものなのではないだろうか。

 レーガンが大統領に選出されたとき、政治への民意の反映のしかた、そしてその政治の展開のしかたに関して、多くの人たちが分析を下した。レーガンの選出は、それまでの時代の終わりと、そこからの次の時代のスタートを意味している、と彼らの分析は語っていた。

 それから八年。その八年の終わり近くになって、外交問題はやはり致命傷のように作用したし、株の暴落や巨額の財政赤字などすべての問題が、大統領の力のなさのせいにされている。大統領は八年にわたって結局はなんにも出来なかった、という印象が、最近のTVニュースの画面から強く伝わってくる。

 きれいに一貫した政策を太くつらぬきとおす、というようなことがもはや大統領には不可能であることは、レーガンのまえのカーター大統領の、大統領としての最後の演説でよくわかる。大統領がなにか提案すると、前後左右、まるで異なった方向から、完全に相反する主張が強く突出してきて、大統領はたちまちそのはさみ打ちに合う。身動きはとれない大統領は弱いからなにも出来ないのだ、というイメージは、そこからさらに強く培養されていく。

 アメリカは強いのだ、ここからアメリカはあらたにスタートするのだ、盛大なるまきかえしの第一歩がここなのだ、というようないわゆるタフ・トークだけが大統領に出来ることであり、本当に強いのは、おたがいに完全に対立する何種類もの主張をする、国民の発言力だ。

(『個人的な雑誌2』1987年所収)

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1980年代 1987年 TVニュース 『個人的な雑誌2』 アメリカ ロナルド・レーガン 大統領 父親
2016年10月3日 05:30
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