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悲しき雨音

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 雨が降っている。九月の終わりの、何曜日だろう。何曜日でもいい。雨の日なのに、空気はとてもさらっとしている。秋だ、さすがに。空気が、肌にとても心地よい。

 雨の香りがしている。

 午後だ。何時ごろだろう。何時でもいい。午後の時間はすでにとっくにはじまっているけれど、まだ夕暮れには時間がある。時間の経過がとてもゆるやかになったように思える、雨の日の午後。

 そして、九月の終わり。

 なぜ、空気がこんなにさらっとしていて、気持いいのだろう。夏のさかりの、粘った暑い日の記憶が、肌のなかにあるせいかな。

 思いっきり、胸に吸いこみたくなる空気。とても澄んだ雨の滴が、いっしょに胸のなかに入ってきそうだ。

 アスファルトの道路が、濡れている。雨によく洗い流され、黒く、つやつやしている。とてもきれいだ。道路のまんなかあたりの、路面の荒れているところが、はっきり見える。中央の白線が、今日だけはほんとうに白い。

 道路は坂道だ。雨の音だけが、いまは聞こえる。ゆるやかな坂道。

 両側に、イチョウの並木がつづいている。緑の葉が、なんてきれいなんだろう。葉がいくつか、歩道に落ちている。雨の滴とイチョウの葉が、さらさらした空気のなかで、やさしくたわむれている。

 かすかに、風がくる。ひんやりとした風だ。雨が、目には見えないやさしさとなって、体をつつみこむ。それが、この風だ。

 坂の下から、バスがあがってきた。この道路を走っている路線バスだ。午後の時間には、三十分に一台くらいしか、やってこない。

 ゆっくりと坂をあがってきて、歩道に寄った。バス停の前で、とまった。よく熟したカボチャの、赤っぽい色とよく似た色のバスだ。雨に濡れて輝く。

 ボディぜんたいがその色に塗ってあり、窓のすぐ下を、ベージュの幅広いストライプが走っている。そのストライプは、バスの正面でバンパーのすこしうえまでさがってきて、ぶつかっている。濡れた黒いアスファルトの道路に、バスの色はよく似合った。

 少年がひとりだけ、雨の中に降りた。走り去るバスのうしろをまわり、道路を小走りに斜めに渡った。

 ケッズのスニーカーが、白い。洗濯したてのブルージーンズに、色をよく合わせたチェックの長袖シャツ。白いTシャツが胸もとから見える。

 すこし長めの髪に、雨が降りかかる。少年とはいっても、二十歳はこえている。道路を斜めに渡り、首をすくめ、コーヒー・ショップの赤い煉瓦の階段をあがった。

 ガラスのはまった木のドアを押し、彼はコーヒー・ショップに入った。

 とても洒落た店だ。ぜんたいが古風な煉瓦づくりで、本物のツタが、みごとにからんでいる。落ち着いた坂道のたたずまいのなかに、しっくりとおさまっている。

 その店の二階は、歩道のうえに張りだすようにして、つくってある。一階は歩道からひっこんでいて、ちょっとした庭に樹がならんでいる。

 大きなガラス窓の二階から、雨の日の午後の坂道を見おろすことができる。

 店に入った彼は、二階へあがった。店は、すいていた。午後の、客のすくない時間だ。坂道を見おろすいちばんいい席が、あいていた。

 窓ガラスに、ときたま、雨があたる。そのリズムが、聞こえるようだ。ツタにも雨があたる。風に、小きざみにゆれている。目で見ているだけで、全身がたとえようもなく涼しくなっていく。

 店のなかは、静かだ。音楽は、かかっていない。雨そのものが、音楽だった。

 道路のむこうがわが、見渡せる。イチョウの樹が、雨に濡れている。自動車は通らない。大きな雨傘をさした小さな女のこがふたり、坂をくだっていった。傘に描かれたスヌーピーが、雨の中で飛びはねている。

 彼は、席にすわって、じっとしていた。雨の坂道をながめているのだろう。でも、なにも見ていないのかもしれない。

 静かな時間が、ゆっくりと、流れていった。

 若い女性がひとり、店の二階へあがってきた。雨の日はアイビーでまとめる。そんな感じの、きれいな女のこだ。

 二階を見わたし、窓ぎわの彼に目をとめると、足早にその席へ歩いていった。

 彼とむかいあってすわり、

「ごめんなさい」

 と、彼女は、小さな声で言った。

 ウェートレスが、彼の注文したものを持ってきた。

 アメリカン・コーヒーに、サワクリームとポテトチップス。こんなもの、注文するんじゃなかったと言いたいような目で、彼はテーブルにならんだものを見た。

「なににする?」

 と、彼は彼女にきいた。

 彼女は、ウェートレスを見上げた。そして、囁くように言った。

「クイーン・メリー」

 小さくうなずいたウェートレスは、水のグラスだけ置いていった。

 ウェートレスがさがってから、

「ごめんなさい」

 と、彼女は言った。

 彼は、黙っていた。

「それだけを言いにきたの」

 彼女は、目を伏せた。しばらく、ふたりは、黙っていた。

「わかってほしいの。電話ではなくて、ちゃんとお会いして、言いたかったの。黙ってないで、なにか言って」

「ぼくはきみを愛してる」

 ぽつんと、ひと粒の雨滴のように、彼はそう言った。

 彼女の顔に、微笑が走った。当惑の影を唇の端にたたえ、首を振って髪をうなじにはねあげた。

 水の入ったグラスに手を触れ、手もとにすこしひき寄せた。

「わかってるの。よくわかってるわ」

 彼女は、目を伏せた。

 グラスから手をはなし、両手をひざに置いた。

 その両手を、じっと見つめた。顔が、くもった。顔を、さらに伏せる。両方の肩が、すっと小さくすぼまるように感じられた。それから、そして、彼女の肩は、小きざみにふるえはじめた。

 彼女は、泣いていた。

 きれいな髪が、彼女の顔を両側から、おおっていた。顔が見えない。右手の指を、目に当てた。しゃくりあげる。悲しいのだ。ほんとに、悲しい。つらい、と言ったほうがいいのかな。両方だ。

「ごめん」

 と、彼が言った。

 彼女は、首を振っている。

 彼は、窓の外を見た。

 ツタに、雨が当たっている。眼下の道路では、まっ白くて大きなサンダーバードが、Uターンしようとしている。

 後輪を歩道に乗りあげさせ、サングラスの若い女性が運転席でステアリングをフル・ロックにまでたぐりこんでいる。

 後輪をゆっくりと歩道からおろし、サンダーバードは道幅すれすれにクリアし、坂道をのぼっていった。サンダーバードがいなくなったあとに、雨がのこった。

「でも」

 と、彼女が言った。

「わかってほしいの。ね、おわかれしましょう」

 はっきりそんなふうに言うのが、とてもつらそうだ。

 大きな丸いポテトチップをひとつ指さきにつまみ、チリ・ソースで溶いたサワクリームをすくい、彼は口に入れた。ポテトチップのくだけるときの音が、大きすぎるように思う。あわてて、彼はコーヒーをのんだ。

「私だって、つらいのよ」

 泣き声がおさまり、言葉の感じがしっかりしている。なにか決定的なひびきがあった。小さく、やさしく、でも、はっきりと、コバルト・ブルーのインクでピリオドを丸く書く。そんな感じだったようだ。

 彼は、彼女を、じっと見つめていた。ウェートレスが紅茶を持ってきた。

 やがて、彼女が顔をあげた。

 ふたりの目が合った。いまのみじめな気持をぜったいに顔に出すまいとしているその決意が、彼の顔いっぱいにあった。彼は、ふられたのだ。

 上体をまっすぐにして、彼は、右手を彼女にのばした。握手だ。

 そっと、その手を、彼女が握った。

 もうちょっとでいいから彼女の手をながく握っていたいのに、彼女は、すぐに彼の手をはなした。

「わかった」

 と、彼が言った。

 目の前で女に泣かれたら、なんでもいいからわかってしまうのが男の義務だ。

「さようなら」

 彼の目を見てそう言い、バッグを持って彼女は立ちあがった。

「君はやはり素晴らしい」

 彼が言った。

 彼女は、足早に階下へ降りていった。

 それからかなりながいあいだ、彼は、ずっと窓の外を見ずにいた。なんにも考えずにコーヒーを飲み、ポテトチップを食べた。クイーン・メリーが静かに冷えた。

 カップの底に、コーヒーがすこし残った。ポテトチップのかけらが、ふたつ。窓の外では、イチョウ並木と黒いアスファルトが、素敵な雨に濡れつづけている。

 やがて、彼は、席を立った。伝票を持って下へいき、会計をすませ、店の外に出た。

 さらっとした空気が、彼の全身をつつんだ。空気のなかに、雨音がいっぱいだった。一瞬、あやうく涙が出そうだった。

 坂の下から、赤いカボチャ色のバスがのぼってくる。コーヒー・ショップのドアの前から雨の中に出た彼は、バス停めがけて、道路を斜めに走って渡った。

 すぐにバスがきてとまり、彼は乗った。バスは雨の坂をのぼっていき、見えなくなった。

底本:『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年

今日の1冊

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9月28日、木曜の夜、10時。19歳の平野聖子は、自分の勉強部屋の、南側のガラス戸に接している温室のなかにいた。
九月の雨|片岡義男

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11月4日|深まりゆく秋です


1979年 9月 『アップル・サイダーと彼女』 コーヒー コーヒーショップ 別れ 彼女 紅茶
2016年9月24日 05:30
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