600編以上公開中今を映す手鏡のように
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2017.11.20
フロント・グリルと僕の関係
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 一九六十年代のなかばから後半にかけての時代の、シヴォレーやフォードなどごく庶民的な乗用車のフロント・グリルがいくつか、ここにある。ひとつずつ観察してやがて頭のなかにまとまる感想は、かつてこういう時代があった、ということ…
2017.11.16
キャンディ・ウエイファーに込められた
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 色とかたちとは味や香りでもある、と考えた次の瞬間、僕はこのキャンディのことを思い出した。アメリカの色とかたち、そして味と香りを、その一身に体現しているものの、ほかに匹敵するものが見つからないほどの好例が、じつはこのキャ…
2017.11.9
この光と空気のなかに
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 エドワード・ホッパーの絵を見るたびに感じることについて、僕は書いてみることにする。見るたびに感じるとは、見るたびに感じることの質や方向に沿って、そのたびに、けっして小さくない影響を、ホッパーの絵から僕は受けている、とい…
2017.11.2
アメリカの正義が勝つ
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 いまのアメリカで出版されているペーパーバックは、どれもみなよく似たつまらない装丁ばかりで、出版社ごとの装丁の特徴や方針などは、皆無に等しい。  一九六〇年代いっぱいくらいまでのペーパーバックには、銘柄別にデザインの特徴…
2017.10.26
美女を三つ折りたたむ
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 一九五十年代前半の、ごくみじかい期間、アメリカの『エスクワイア』という雑誌には、三つ折りの引き出しページがあった。横長のページの一端はほかのページとおなじく綴じてあり、その横長のスペースは、山折りと谷折りひとつずつで、…
2017.10.14
アメリカにおけるトマトの色
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 アメリカの大衆向けの、大量生産の規格品としての食品のチャンピオンは、キャンベルのトマト・スープだと僕は思っている。  一九二一年には、キャンベルのトマト・スープひと缶の値段は、十二セントだった。まずとにかくそれは安い。…
2017.10.13
股関節の柔軟な歩きかた
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 秋のウイーク・デーの夜。早すぎもおそすぎもしない、とてもいい時間に、ぼくは彼女とふたりで散歩をしていた。彼女の、ほどよい高さのきれいなヒールが、歩道に心地よい音をたてていた。いっしょに散歩する女性としてぼくがまっさきに…
2017.10.12
彼とぼくと彼女たち 1-(3)
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《(2)からのつづき》  食事をおえていっしょに食堂を出たぼくたちは、駐車場でさらにすこし話をした。そして、いっしょに走ることになった。走る方向は、ふたりともぴたりとおなじだった。  ぼくたちは、午後の国道を、西にむけて…
2017.10.11
彼とぼくと彼女たち 1-(2)
縦書き
《(1)からのつづき》  彼は、女性にもてた。そして、つきあう女性は、ほぼ六カ月の周期で、定期的に入れかわった。  オートバイで旅に出たっきりいつまでも帰って来ないことはしばしばで、半年に一度しか会わないこともよくあった…
2017.10.10
彼とぼくと彼女たち 1-(1)
縦書き
1  彼はぼくよりふたつ年上だ。おなじ大学のおなじ学部を卒業している。先輩にあたるわけだが、二歳ちがいなら、先輩であると同時に、親友にもなりうる。彼はぼくのことを、「おい、片岡」と呼ぶ。いつでも、かならず、「おい」が、つ…
2017.10.9
引っ越しという自己点検
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 いろんな視点から自分を点検し考察しなおすための、たいへんな好機のひとつは引っ越しではないか。六年前におこなった引っ越しは、僕にとっては確実にそのとおりの機会だった。そのとき点検し考察しなおした自分というものは、それ以後…
2017.10.8
それらは消えた、そしてそれっきり(2)
縦書き
《(1)からのつづき》  いまも神保町にあるもの。とっくに、あるいはいつのまにか、消えてしまったもの。この両者を、不確かな僕の記憶のなかで見くらべていると、なんと言ったって決定的に消えたのは都電だ、という思いに僕は到達し…
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