バスの座席のセレナーデ

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はじめまして。北條一浩と申します。

片岡義男.comでは、新たにスタッフブログを始めることにしました。片岡義男.comには様々な人が様々な役割や立場で係わっていますが、みんなそれぞれどんな気持ちで片岡作品と向き合っているのか、どこを面白がっているのか、また、このプロジェクトを進めながら感じていること、考えていること、発見したこと、思い出したこと、別の何かと線がつながったこと、その他気が付いたこと、書きたいことはどんなことでも、複数のメンバーで随時、書いていこうと思っています。

ぼくはこのプロジェクトの中では主に、個々の作品の発売に際して、内容紹介文を書くのが役目です。片岡作品を購入する際、「おもしろそうだ」と目星をつけていただくためのきっかけづくりの仕事です。もちろん、そんな紹介文など読まず、ピンと来たタイトルを買ってみる、というのもとても正しいやり方だと思います。

さて。

これまで短編を中心に、時には長編も含め、200の片岡作品を電子化し、販売してきました。片岡作品には昔からなじんできたつもりでも、あらためて短期間に集中して読んでいくと、否が応でも気づかされる特徴がいくつもあります。これからそんな「気付き」について書いていきたいと思いますが、最初は「外側」ということについてです。

複数の片岡作品を読んだ方なら首肯してもらえると思いますが、片岡義男の小説には「内面」がありません。だから葛藤がありません。いや、葛藤はほんとうはもちろんあるのだけど、人物のモノローグに寄り添うような葛藤の描かれ方は絶対になく、主人公なり登場人物にネガティブな出来事が降りかかることはあっても、それが物語の起点として利用されることもありません。また、あらかじめ宿痾のようなものを背負っていて、その運命に対する甘受や理解、反撥、超克などを経て物語がラストに向かっていく、という構造を取ることもありません。

そのことはなんとなくわかっていたつもりでしたが、200作品を集中して読んでみると、その揺るぎの無さに打ちのめされます。

片岡作品に登場する人物の多くが30代以下の若い男女であり、例外なく容姿に恵まれているのはなぜか。それは、年齢を重ねることが自然に要請してくる生の翳り、不細工であることから生じる苦労やハンディキャップ、そうしたものを排除するためではないでしょうか。片岡義男さんの小説ってどんなの? と人に聞かれたら、「若い美男美女しか出てこない」と答えるのが、とりあえず最も正確なはずです。語弊がある言い方をあえてすれば、それはもう、辟易するくらい徹底しています。そんなバカな、そんなリアリティのかけらもない小説なんて…… と、傍目には見えるでしょう。しかしこうした小説を40年書き続けているという事実を知り、個々の作品が示している小説としての強度を体験してみれば、そこには人をして沈黙させる何かがある。このような片岡作品の世界を、かつて片岡さんと一緒に『ワンダーランド』という雑誌を作っていた津野海太郎さんは「ユートピア小説」と呼びました。

遠回りになりました。「外側」の話です。

片岡さんにお会いした時にも、何度か「全部外側にある」とおっしゃったのを記憶しています。「内面」がないのだから全部外側にある。『去年の夏、ぼくが学んだこと』(東京書籍)の中にこんな箇所があります。

 物語のすべてが自分の外にあるなら、すべてを外から書く、という書きかたをすればいいはずだ。物語の展開のすべてを、外側から書いていく。人物たちのアクションも思考も、すべて起こった時間の順に書いていく。それだけで充分にクールになるはずだ。主観をさしはさまない。すべては外から書く。それをどのような言葉でどう書くなら、美しくしかも軽くなるのか。書いてみないとわからない。

 またこんな箇所も。

「小説のための材料が自分のなかにあるのだと思うと、面白くはならないよ。小説に書く物語はすべて自分の外にある。その人とこんな内容の議論を重ねたんだよ。材料はすべて自分の外にあるんだから、無限だよ。したがって面白さもきりがない」

 そしてもう1冊。こちらは片岡作品ではなく、人間行動学者でコミュニケーション論が専門の細馬宏通さんが書いた『介護するからだ』(医学書院)の帯にこんな文がありました。

 介護行為が撮影されたビデオを一コマ一コマ見る。心なんて見ない。ただ動きを見る。そこには、言語以前にかしこい身体があった――

 これを渋谷のブックファーストで見つけた時、「あ、片岡さんの小説だ」と思いました。外側にあるから見えるのです。見えるのはアクションです。アクションは何よりもその人をよく表し、アクションの連鎖とアクション同士の交錯が、小説を可動させます。

最初のブログにしては長いですかね? 調子に乗って長く書くな、あとがやりずらいんだよ。そんな声が今、聞こえました。わりとハッキリ(笑)。

もう少しだけ続けます。すべて外側にある、ということが肝心なことだから、片岡さんは小説ばかりでなく、熱心に写真を撮ってきたのだと思います。すべて「外側」にあるものを光の助けを借りて捕獲するのが写真です。しかし写真に関して――そして「外側」にも関係があるのですが――片岡さんは最近、東京・下北沢にある書店「B&B」のトークで重要な話をされました。すべては外側にあるけれど、ではどこで、何を、どのように撮影するか、どのアングルでカメラを向けるのか、それは撮影者の過去が決めている、とおっしゃった。

経験といってもよいのかもしれません。これまでどのように風景を、世界を眺め、認識してきたのか。そのことが写真に反映される。

つまり、自分とは過去である。

近年、どんどんハイペースで量産している片岡さんはあくまで現在形の作家であり、ノスタルジーとは無縁である、というイメージがないでしょうか? しかし「過去」は「外側」と並んで、片岡作品ではとても重要です。1960年代を舞台にした小説が多くなっているのも、作家自身の20代の記憶が呼び戻されているということのほかに、いま、それがとても充実した「過去」として生きて動いているからでしょう。

「過去」なら、それはその人だけのものであり、やっぱり「内面」に閉まってあるものじゃないか。そう思われるかもしれません。しかし「過去」は「思い出」とイコールではありません。それは自分が自分以外のものと関係してきた長い歴史です。

「外側」について『去年の夏、ぼくが学んだこと』から引用しましたが、そこからわずか14行後に、「過去」が「僕」を不意打ちする場面があります。

 バスの座席のセレナーデ、というフレーズが、いきなり、僕の頭の中に浮かんだ。一九五七年にニューヨークで録音された、ジャズのトランペット奏者クラーク・テリーのLPの題名だ。英語の題名を僕が理解したとおりに単純な日本語に置き換えたのが、バスの座席のセレナーデ、というフレーズだ。記憶の中のどこかにとどまっていたこれが、いま突然、頭の中に浮かび上がった。
そのフレーズも僕は原稿用紙に書いてみた。

どうでしょう? 過去はこのようにして飛んできます。自分が自分に向かってすっ飛んでくる。

言葉が重要であることは言うまでもありません。言うにいわれぬモヤモヤした気分ではなく、ハッキリしたフレーズとして、しかもそれはまったく他人の、外国語の、外側の言葉であったものが過去に自分の意識によって捉えられ、「単純な日本語」となって、どういうわけか今、この瞬間にやってくる。

これが片岡義男の小説だ。そう思います。

 

2016年8月1日 02:00